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学芸美術 画家の心 第34回「ヨハン・コーヘン・ホッスハルク ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの肖像 1905年」

四角張った顔。意志の強そうな目鼻立ち。髪の毛はうしろにギュッと引きまとめ、軍服を思わせる詰襟の、渋い茶色の服を着ている。喉元の灰白色のブローチが女性らしさを示しているが、それも質素な感じだ。

この女性はヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルという。ゴッホを世界的に有名にした女性、ヨハンナだ。彼女なくしてわれわれの知るフィンセント・ファン・ゴッホは存在しない。

今流で言えば敏腕のアートプロヂューサー、もしくは最高のキュレーターと称賛されるべきか。

ではなぜ彼女に、そのような大それたことができたのだろうか。

ゴッホに関しては多くの謎が存在するが、行動の怪しい気がふれているとされ、さらに後ろ盾のないゴッホが何故有名になったのか、これこそが最大の謎なのだ。

これまでにゴッホにまつわる謎について思考してきたが、最大の謎である、なぜゴッホは有名になり得たのか、この謎を解くためのキーを、ひとつひとつ拾い集めてきたに過ぎない。

ヨハンナはアムステルダムのボンゲル家に生まれ、地元では名家のひとつだった。当然、厳格に育てられたのだろう。通称、ヨーと呼ばれ、1889年ゴッホの弟でグービル商会パリ支店の支配人で、前途洋々のテオと結婚する。テオのひと目惚れだったようで、このとき、ヨー27歳、テオ32歳だった。当時としてはふたりとも晩婚だったと思われるが、ふたりは両家にとっても最高のカップルだった。

そして翌年には男の子を授かり、兄の許しを得てフィンセントと名付けられ、喜びの絶頂期にあった。ちなみに、フィンセントという名はゴッホ家の長男が引き継いでいたようで、ゴッホの父もフィンセント、画商だったおじさんもフィンセト、勿論長男であったゴッホもフィンセントの名を継いでいる。

テオは子供が生まれた1890年にグービル商会を辞め、独立を果たすが、思った以上に商売は振るわなかった。何をあつかったか不明だが、きっと印象派の絵やポスト印象派の絵画を売ろうとしたのだろう。だが、時期が数年早かった。

子供を抱えたヨーは、これからの生活に不安を抱く。その大きな原因は義兄への多額の仕送りだ。この時のゴッホは後の世に知れる名画を次々に生み出しており、そのための画材費や生活費がバカにならなかったのだ。

ヨーは夫テオにその不安を訴え、ときには口論することもあっただろう。
テオが出かけ、たまたま不在だったときに義兄がふらりと尋ねてきた。ヨーは義兄に対して現状を明快に説明する。
「テオがグービル商会を辞め、商売もうまくいかず生活は苦しくなりました。お義兄(にい)さん、これからは今までのような仕送りはできません」

 ゴッホはそれを黙って聞いており、やがて立ち上がると頭を下げそのまま黙って出ていった。そして、義兄はこれ以後二度と尋ねてくることはなかった。

 出かけ先から戻ったテオはすぐにでも飛んで行き、兄に許しを得たかったが、今のテオにはそれはできなかった。自分の不甲斐なさがとても悔しかったことだろう。

 悶々とする時間が流れたある日、突然兄が拳銃自殺を図ったという電報が届く。テオは兄の元へ飛んで行くが、その翌日兄の状況は急変し帰らぬ人となった。

 『自殺だなんて、なんて恐ろしいことをするの…』、ヨハンナは身を震わせた。
 それから半年後、夫のテオも精神を乱し、兄の後を追うようにして自死した。

 ヨハンナからしてみれば、結婚をしてあっという間のわずかな間に喜びの絶頂から真っ暗闇の谷底に突き落とされたようなものだ。
 『呪われている』、そう思ったかもしれない。

でも待って、あの時、あのひと言さえ言わなければ…、テオもお義兄さんも死ぬことはなかったのかもしれない。
 ヨハンナはどれほど泣き、悲しみ、己自身を苛(さいな)んだことだろう。

 そんな彼女の元には、夫とお義兄さんが交わした膨大な数の手紙と仕舞いきれないほどの絵が残された。
 多くの絵はヨーにはその良さがわからない。ひまわりの絵はすごいなぁと思ったけど、夫は兄は天才だと言っていたが、世間では狂人扱いだ。

ふたりの手紙を読んだ。一通一通目を通していく。読みふけるうちにヨーの頬は涙で濡れていた。ふたりの世界は光に溢れ、優しさが満ち満ちている。すっかり日が暮れたのも気がつかぬほどだった。

そして、知ったのだ。お義兄さんは決して狂人などではない。どちらかと言えば、いや間違いなく頭脳明晰なひとなのだ。それを夫のテオが必死になってかばい守り、支えてきたのだ。

テオは言っていた。
「兄さんはきっとこれまでにない世界最高の画家になる。それをぼくが助け成し遂げるのだ。こんな嬉しいことはないじゃないか。ヨーちゃん、君も一緒に手伝ってくれ!」

テオとフィンセントの手紙のやり取りは、誇り高く慈しみに満ち、真の誠に包まれたものだった。世の人たちにこのふたりのことを知ってもらおう。いや、知らしめなければならない。これが残されたわたしの使命。これを読めばわかるはず。義兄は狂人ではなく、わたしの夫は最高の愛に満ちたひとだったことを。

ヨハンナはそう決心するとふたりの書簡集を作りみなに配った。
そして、ゴッホの作品を世に知らしめるため夫に代わり、立ち上がる。1901年3月から4月、ハーグにあるアスティアハウスでゴッホの回顧展を開催する。ゴッホが死んで11年が経っていた。この展覧会は若手画家を中心に大成功を収める。それを契機に毎年どこかでゴッホの回顧展が開かれるようになる。

アメリカでは、1935年ニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展が開かれ、これを境にゴッホは世界でもっと人気の高い画家となる。
日本での展覧会は1953年東京都美術館で「ゴッホと同時代のヨーロッパ絵画展」が最初であった。先日、「ゴッホと静物画 伝統と革新」展に行ってきたが、やはり「ひまわり」は最高だった。

SOMPO美術館所蔵
「ひまわり」


模写「ひまわり」


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