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「一泊二日」 第三話

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 ◇

 まだ午前中の早い時間だ。
 本来なら、朝市にいく予定だったのだが、さすがに一人で見て回る気にはなれなかった。観光ガイドに載っている名所を見たところで、惨めな気持ちになるだけだ。仙台ほどの都会なら、見慣れたファストフード店やカフェもたくさんある。いっそのこと、東京にいるのと変わらない場所でゆっくりしたほうが、気も休まるだろう。

 とりあえず私は、仙台駅の中央口から西口方面出口へと向かった。駅の二階から伸びる高架型の歩道は、たくさんの人が歩いているのに、どこか解放感がある。地上を歩くより、空が近いせいかもしれないが、たくさんのビルや店が立ち並んでいても、東京よりずっと、空が高く広く感じた。このまま何も考えずにずんずん歩いていくと、遠くに見える青空の先まで、辿り着けそうだ。

 エスカレーターで地上に降りると、すぐ左手にアーケードがある。一歩足を踏み入れると、ドラッグストアやカラオケ屋、お寿司屋さんなど、様々なお店が目に飛び込んできた。
 空の見えないアーケードの中を歩いていると、東京の街を歩いているような気になるが、《牛たん》の文字が、ここが仙台であることを主張してくる。最初は、早い時間でも空いているファストフード店にでも入ろうと思っていたが、二十四時間営業のマンガ喫茶を見つけたので、そこで体を休めることにした。

 受付を済ませ、読んでみたかったマンガを適当に持ち出し、仕切られただけのブースに入る。マンガ喫茶なんて久しぶりだったが、今は様々なタイプの部屋があるらしい。私は、マッサージチェアのあるブースを選んだ。
 サービスも充実している。店内にあるドリンクバーやソフトクリームが無料で楽しめるし、有料だが、食事だって注文できる。ここにいれば、どこにもいかずに、ホテルのチェックインまで時間がつぶせそうだ。

 パソコンデスクに手荷物を置き、マッサージチェアに体を滑らせると、合皮がきしむような音を上げた。こうして椅子にふんぞり返っていると、何だか社長にでもなった気分だ。
 ああ、疲れた  
 言葉になってしまいそうなため息がもれる。早速、マッサージチェアのスイッチを押した。グイングインという機械音とともに、背中や首の揉み玉が、私の体を微かに持ち上げる。
 心地よい振動に身を委ねているうちに、私の意識は、もつれる糸がほぐれるように、ゆるゆると遠のいていった。

 次にまぶたを開けたとき、私の両目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれていた。手のひらでそれを拭い、ああ、またか、と思う。
 いやなことがあると、私は決まって家族の夢を見る。シチュエーションも大体同じだ。

 夢の中では、なぜか私だけが子供のままで、母と姉は、実家のリビングで楽しそうに旅行の計画を立てている。会話に加わろうとする私を制するように、母が言う。
「真希はお父さんとお留守番よ」
 ショックで何も言えなくなった私を無視して、母と姉は、なおも旅行の話で盛り上がっている。
 もしかしたら私のことが見えていないのだろうか。二人の視線が私を素通りしていく。そのことが、悔しくて寂しくてたまらない。泣き喚きたかったけれど、すぼめた唇は固く強張って、開くことができなかった。
 風船のように膨れあがる悲しみに恐れをなして、私は無理矢理に目を開ける。そうして、これは夢だったのだと気づいてようやく、こらえていた涙がボロボロと溢れ出すのだ。
 この夢を見るようになってから、私は実家から足が遠のくようになった。

 今、実家には、両親と姉と、七歳になる姪のまなみが暮らしている。
 姉が離婚して実家に戻ってきたのは、私が就職してひと月ほど経った頃のことだ。離婚の原因は夫の不倫。それを知った母は、姉に強い同情を示した。

 母は昔から感情の起伏が激しく、突然、手が付けられないくらい泣くことがあった。それが父の浮気癖によるものだと知ったのは、私が小学生の頃だ。
 何度か離婚話が持ち上がったものの、母は父と別れることができなかった。父の異変を察知すると、母は起き上がれなくなるほど気持ちが落ち込み、パートを続けられなくなったからだ。
 そうなると、生活を父の稼ぎに頼るしかない。その悪循環が、両親が夫婦を続ける理由のひとつになっていた。

 姉は、そんな両親を厭わしく思ったのか、わざわざ地方の大学に進学し、早々に家を出ていってしまった。私はずっと一人で不安定な母を支え続けた。泣き始めれば背中をさすり、必要なら病院にも連れていった。それなのに、姉がまなみを連れて帰ってきた途端、母は私にこんなことを言ったのだ。

「あなたも就職したんだし、そろそろ一人暮らしでもしてみたら?」
 まなみが走り回るせいで、家の中は手狭になった。私がいなくなれば、部屋をかたして、そこを子供部屋にすることができる。要するに、私が邪魔になったのだ。

 まなみと一緒に住むようになってから、母は毎日が楽しそうで、泣き喚くこともなくなった。そのことに安堵しながらも、私の数年に及ぶ苦労が、ただそこにいるだけの小さな姪の存在によって解消されたことに、複雑な思いがあった。何よりも、そうやってひがんでいる自分が、いやでいやでたまらなかった。

 私が仕事から早く帰ると、まなみはなぜか嬉しそうに
「まーちゃん、まーちゃん」
 と言って、まとわりついてきた。最初のうちは、
「自分だってまーちゃんでしょう?」
 そう言いながら笑顔で相手をしていたが、徐々に、まなみは私の足元に抱きついてこなくなった。邪険にした覚えはない。でもまなみは、きっと私の奥底にある気持ちを見抜いていたのだろう。あの子は何も悪くないのに、私はまなみのことを、それとなく避けるようになった。

 同じ傷を持つ母と姉の仲は、これまでにないほど親密になっていった。姉を気遣い、まなみを猫可愛がりする母を眺めながら、私はやり場のない気持ちになった。

 意地になって実家に居座り続けるほどの忍耐力もなく、私は逃げるように家を出て、一人暮らしを始めた。
 まなみが走り回ることなく、母が突然泣き喚くことのない自分だけの小さな城は、静かで快適だったが、ふと、強烈に母や姉を憎む気持ちが湧いた。

 社会人1年目だったこともあり、会社でも、ここが自分の居場所だと胸を張れるような、自信が持てなかった。どこにいても、影のようにたゆたうばかりで落ち着かない。そんな洞穴のように空いた心に、洋平がすっぽりと、きれいに収まってしまったのだ。

 時折、私は母や姉に、自分が三年も不倫をしていることを、告げたくなる衝動に駆られる。そんなことをしたところで、蔑まれ、罵られるだけだろうが、それでも、ぶちまけたいと思ってしまう。どうしてかはわからないが、そうしないと、気が済まないときがあるのだ。
 そんな日は、かなしいくらい洋平に会いたくて、たまらなくなる。

 私はマッサージチェアの上で、軽く背伸びをした。もそもそと動くたびに、合皮がギュギュっと音を立てる。結構、耳につく音だ。
 時計を見ると、もうお昼だった。
 何か食べようと思い、デスクに置いてあるメニュー表に手を伸ばす。丼物や揚げ物、麺類。ポテトフライなどの軽食。ピラフとパスタの上にとんかつが乗った《長崎名物トルコライス》なんていうものまである。とんかつの上にはデミグラスソースが掛かっているらしい。

 こんなときでも、何を食べるか迷いながらメニューを眺めている。そんな自分に笑えてくる。注文は、目の前にあるパソコンでできるシステムだった。本当に、今のマンガ喫茶は、ブースに籠っているだけで何でもできるのだ。

 しばし待つと、店員さんが《海老かき揚げうどん》を届けてくれた。
 今日みたいな日に何も食べないでいると、それだけでわびしい気持ちがわいてくるものだ。つゆをレンゲですくい、すうっと流し込む。こういうときは、温かい汁物がいい。
 こだわりの出汁ではないだろうが、誰かが作ってくれた温かいものを食べるだけで、心がホッとする。母から家を出ろと言われたときも、洋平から妻がいると告げられたときも、私はこうして、温かいものを食べた。

 かき揚げを頬張り、うどんを啜る。これを食べ終えたら、マンガを読んで、おやつにソフトクリームを食べて、またマッサージチェアに体をほぐしてもらおう。そんなことを考えながら、崩れたかき揚げをレンゲですくって、つゆと一緒に啜っていく。
 何の変哲もない休日の顔をした時間が、ただ静かに過ぎていった。

  ◇◇◇

 ホテルのチェックインの時間になり、私はマンガ喫茶を後にした。随分と長居してしまったが、マッサージチェアのおかげで体もほぐれ、肩や腰回りはすっきりしている。
 予約したホテルは駅からも近く、観光にもビジネスにも使える、老舗のホテルだ。今日、洋平と奥さんも、このホテルに泊まる。同じホテルを予約したからといって、また再会できるかはわからない。でも私は、また会えるに違いないという、確信めいた予感があった。

 キャリーバッグを引っ張りながらずんずん歩いていたら、あっという間にホテルに到着した。大理石のような白い壁に囲まれたフロントで受付をし、カードキーを受け取ると、
「あら?」
 背後から、歌うような明るい声が聞こえた。
 顔を見なくても誰かわかった。

「まぁ! あなたもこちらにお泊りなの?」
 奥さんの背後で、洋平がまた青い顔をしている。
「何となくだけど、また、お会いできるような気がしていたのよ。嬉しいわ」
「ええ、本当に」
 マッサージチェアのおかげか、顔の表情筋までほぐれたらしく、驚くほどすんなり、奥さんに笑顔を向けることができた。

「どこか、観光してらしたの?」
「いいえ、本当は彼と一緒だったのに  なんて思うと、どこにも足が向かなくて、ずっとマンガ喫茶にいました」
 洋平の胸に、チクリと針を刺すつもりで言ってみる。
「あらー、せっかく仙台まできたのに、それじゃあ、もったいないわ」
 奥さんは、眉毛を八の字に下げて吐息を漏らした。
「夕飯くらいは名物でも食べようかと思ってるんですけど、やっぱり一人じゃ寂しくって」
 洋平が奥さんの後ろで、ソワソワしはじめる。

「じゃあ、もしよかったら、お夕飯、一緒にいかが?」
「え?」
「え?」
 奥さんの提案に、私と洋平は同時に声を上げた。
「いやいや、ユイちゃん、それはさすがに御迷惑でしょう?」
「ユイちゃん?」
 洋ちゃん、ユイちゃんと呼び合う夫婦でしたか。ああそうですか。
 思わずいじけそうになる。洋平の視線は、しまった、と言っているかのように、おろおろ泳いだ。

「あ、私、由比子ゆいこっていうんです。由比ガ浜の由比で由比子。この人は夫の洋平。そういえば、まだお名前伺ってなかったわね」
 フロントロビーの真ん中で、自己紹介が始まってしまった。この流れで、私の名前は教えません、という訳にはいかない。
「まなみといいます。ひらがなで、まなみです」
 私は咄嗟に、姪の名前を口にしていた。まなみに不倫の罪を着せるみたいで気が引けたが、やはり奥さんに、本名を名乗るのは怖かった。フロントをチラリと見ると、スタッフは席を外している。この会話を聞かれなかったことに、私はホッとしていた。

「ねぇ、まなみさん。せっかく仙台まで来たんですもの。喧嘩した彼氏のことは一旦忘れて、今夜は美味しいもの食べましょうよ。誰かと一緒にいれば、そのときだけは彼氏のこと、忘れられるわよ」
 忘れられるも何も、今、目の前にいるんですけど  
 なんてことは、もちろん言えない。こうして再会できる予感はしていたが、まさか夕食にまで誘われるとは思わなかった。

「でも……夫婦水入らずなのに、申し訳ないです」
 しおらしくうつむくと、奥さんはぶんぶん首を振った。
「いいの、いいの。さっきまで、ずっと水入らずだったんだから、もう充分よ。それに、まなみさんと一緒の方が、きっといい思い出になるわ。ねぇ、洋ちゃん?」
「そ、そうだね……」
 気の毒になるほど、返事に覇気が無い。
「それなら、午後六時半過ぎに、このロビーで落ち合いしましょう」
「はい」
「じゃあ、あとでね」
 奥さんは、顔のすぐ横で可愛らしく手を振った。洋平は青い顔をして、フロントのカウンターに向かう。私は、その頼りない背中を見送りながら、エレベーターの《閉》ボタンを押した。

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