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とても甘くて、いまだに苦い

「僕は、はっきり言ってあなたに惹かれてるんですが」
と正面切って言ってくれたおじさまがいた。
うんと若い頃の話だ。
20歳年上で、真面目な眼鏡をかけていて、スーツがよく似合って、冷静だけど優しそうで、私の好みのタイプを絵に描いたような人だった。
しかし、その恋は瞬く間に終わってしまった。


その彼は、共通の知人であるOさんが仕事上のことで引き合わせてくれた人だった。
Oさんというのは、社会的な貫禄はあるものの常に爆笑トークを繰り広げる面白いおじさんで、私のことをよく食事に連れて行ってくれるなど、とてもよくしてくれている人であった。
一方、彼にとってのOさんは大学時代からの親しい先輩であり、仕事上でも濃いつながりのある人だった。
つまり、私も彼も恩義を感じている存在だったのだ。


ある時Oさんが、彼と私のしている仕事が合致するのではないかと言って、3人での会食の場を設けてくれた。
気の合わなそうなおじさんだったらやだな〜と思っていたのだが、実際に現れた彼はめちゃめちゃに素敵な人だった。
(注:どの友達に写真を見せても『普通のおじさん』としか言われなかったけど)


しかも仕事の内容を聞くと、これもまたスムーズに行きそうなことがわかり、気も軽くなった。
ひょっとしてすごく楽しい日々が始まる??と心がウキウキしだした。


仕事の話が一通り済んだので、Oさんと彼の昔話を聞いたり爆笑したりしている間、彼と何度か目が合った。
その度に一瞬甘い空気が漂った。
途中Oさんが席を立って二人になった時、何を話そうか思案していたら彼の方が口を開いた。
「あなたの噂はOさんからよく聞いてますよ。ずいぶん前から」
「あ‥そうなんですか?」
「Oさんはあなたのことを大変気に入ってますからね。まあご存じでしょうけど」
「いえ、そんな」
「‥‥Oさんの気持ちがわかる気がしました」
当たり障りのないことでも話すのかと思っていたら、急に素敵なことを言われてびっくりした。


その数日後、深夜1時近くに突然彼から電話が掛かって来た。
私は心のどこかで予期していたような感じもあり、とても嬉しい気持ちでその電話に出た。
ところが彼は『先日の件ですが』と仕事についての話を始めた。
それは私にとって大変ありがたい内容だったのだが、聞いている内にちょっと残念なような、複雑な気持ちになった。
「‥‥そんなお話のために電話して下さったんですか?」
我ながらずいぶん大胆なことを言ったものだが、彼は、
「‥いや、まあこんな夜中に掛けといてそんなわけも無いんですけど。ちょっと酔った勢いで‥‥‥本当は、あなたに電話したかっただけです」
と言った。そして、
「今度二人で飯でも食いませんか」
と誘ってくれた。


数日後、素敵なホテルのレストランで会った。
彼は物静かだけどユーモアもある人で、笑いながら食事をしている途中、
「この間のね『そんなことで電話くれたんですか?』っていうあなたの台詞がすごく良かったんですよ。よくあんなこと言いましたね、あなた」
と言われた。
私も同じ気持ちだった。
あの時に彼が変にごまかしたりしないで「仕事の話なわけない」と言ってくれたことをとても嬉しく思っていたのだ。


食事の後、そのホテルのバーに行ったのだが、そこからはもう素敵なムードになりすぎてしまった。
その時に冒頭の台詞を言われたのだ。
「僕は、はっきり言ってあなたに惹かれてるんですが」
と。


だいぶ夜更けまで飲んでバーを出た。
エレベーターに乗って私が1階のボタンを押すと、彼がふいに顔を近づけて来て、ほんの少し唇に触れるぐらいのキスをされた。
私が驚いていると扉が開き、先に降りた彼が振り返って『おいで』というように黙って手を伸ばしてくれた。
もう次から次に素敵なことをされて甘い気持ちが止まらない。
大通りまで手をつないで歩き、タクシーが通るのを待ちながら帰る方向の話などをして「じゃあ2台止めましょう。これで帰ってください」と彼はタクシーチケットを渡してくれようとしたのだが、
「それとも‥‥」
と手を止めて、
「‥‥泊まりますか?」
と言った。
私は今夜そこまで言われるとは思っていなくて、どうしていいかわからずに彼の目を見つめながら二度三度と首を振ってしまった。
すると彼が、
「何もそんなに首振らなくても」
と言うので思わず笑うと、今度は深いキスをされた。


数週間経った後、また食事をすることになった。
私は、前回ホテルに行かなかったことを後悔していた。
まだ若い頃で経験も少なく、物事はもっとゆっくり進むのかと思っていたのだが、大人ってそうでもないのだなと思った。
もう夜も日も明けないぐらい彼を思っていたので、次に誘われたら絶対断らないようにしようと心に決めた。
っていうかむしろ行きたい!と思った。


ところが────。


「あの後ずいぶん考えたんですけど」
と彼が言った。
「Oさんのことを考えると進んじゃいけないと思い直したわけですよ。この前は進みそうになっちゃったけどね」
急に方向転換をされて、私はとてもショックを受けた。
「Oさんのことって‥‥やっぱり気にしなきゃいけないでしょうか」
「Oさんは結構あなたのこと本気なんですよ、ああ見えて。僕はずっとあなたのこと聞かされてますからね」


私はOさんに特に何かを言われた訳では無いのだが、言われてもおかしくない雰囲気を感じることはあり、そういう雰囲気にならないように気をつけている‥‥という自覚はあった。
でも、直接何か言われないうちはセーフだと思っていたのだ。


「私がOさんにハッキリ断ったとしたらいいんでしょうか」
「うーん‥‥あなたが断ったらというよりは、Oさんがあなたのことをキレイさっぱりやめたら、ですかね。Oさんは僕にとって非常に大きな壁なんですよ」
「‥‥その壁を越えるわけにはいかないんでしょうか」
「‥‥ちょっと越えにくいですね。あなたが二度とOさんと会わないというなら話は別ですが‥‥」
「‥‥じゃあ‥‥今度会う時にOさんに断っちゃおうかな」
「何て言って断るの?」
「‥‥『もしお食事以上のことを望まれているのなら困ります』って」
「う〜〜ん」
「ダメでしょうか??」
「どう‥‥だろうね」
「でも、だって、何て言えばいいんでしょう?」
「いや、僕もわからないけど‥‥‥っていうか、オレがこういう相談に乗っちゃマズイんだよ。これはいけませんよ」
「あ、いけませんよね!そうですよ、ダメですよね」


私は何だか悲しくなってきた。
「この前泊まりますかって言って下さった時に泊まればよかった」
「こんな酔っ払ってる時にそんなこと言われるとまた誘いたくなりますけど」
「誘って欲しいです」
「‥‥本当に?」
一瞬彼の心が動いたように見えた。
すると急に『彼はセックスがしたいだけなんだろうか?』と不安になった。
「酔っ払ってると誰でも誘いたくなるんでしょうか?」
「あなたじゃなくてもいいかってことですか?悪いけどそんなに若くないんですよ、僕は」


そして。
ムードは重いままだったのに、とうとうホテルに行ってしまったのだ。
私は正直言ってOさんのことは全く頭に上らなかった。
それよりも急に彼に手を離されそうになったことの方が淋しかった。


ホテルの部屋に入ってからも、彼は気が滅入っているような後悔しているような雰囲気だし、私も淋しい気持ちがまとわりついて離れず、いいセックスはできなかった。


案の定、それから連絡が途絶えてしまった。
電話にも出てくれなくなった。


彼が実際にどう考えたのかはわからない。
やっぱりOさんに悪いと思ったのか、私に対する気持ちが冷めたのか、本当に最初からセックスがしたかっただけなのか。
恋のピークが来るのも早すぎたし終わるのも早かったので、想像する材料も少なすぎた。
そして、こんな風になってしまったからには仕事の話も白紙に戻った。
結局二人でOさんを裏切るようなことをしてしまったという苦い気持ちだけが残った。





‥‥重い!!
年の瀬に重い話になってしまった。
ああ。
出だしはあんなに素敵な雰囲気だったのにな。
あの時ホテルに行かなければいい思い出のまま終わっていた気もするが、行かなきゃ行かないで後悔した気もするし‥‥。
Oさんのことがなければ‥‥いやいや、それを超えるだけの魅力が私にはなかったということなのだ。


とても甘かったけど、いまだに苦い思い出だ。










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