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リングにあがる

これは2016年に古本屋「BOOKBOOKこんにちは」のブログに書いた記事です。ブログを閉じることにしたので、こちらに移動しました。


2016年2月19日

こんばんわ。古本屋「BOOKBOOKこんにちは」です。
最近はだいぶ暖かいですね。夜は寒いけど、昼間暖かいので嬉しいです。

最近、きちんと読んだことがなかったけど、改めて読んだらすごく面白いなぁと感じた本を何冊かまとめて読んでいます。その中の一つに石井好子さんのエッセイがあります。1922年生まれ、戦後サンフランシスコで音楽の勉強をし、パリでシャンソン歌手として舞台に立ち、日本に戻ってからも歌手として活躍しながら、エッセイも書かれていた石井さん。有名な「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」は、たくさんの本屋で、友達の本棚で、図書館でも見かけました。表紙がセンス良くかわいいから手に取るけど、料理のエッセイだし(前回も書いたけど、料理にさほど興味がありません)、なんとなく古くさいような気がしてぺらぺらめくって、すぐ元の場所に戻すということを何度も繰り返していました。

でも、ある日、「私の小さなたからもの」という本を手に取ります。大きな関心もなくぺらぺらとめくった時、ある一つのエッセイに目が止まりました。「誰もいない舞台」という題です。とても短いエッセイで、石井さんにとっての「舞台」がとても素直に書かれています。これを読んで、私は石井好子さんという人を誤解していたんだなと思いました。

舞台に上がる人間の気持ちは、舞台に上がる人間じゃないときっと理解出来ないでしょう。私には、正確にその気持ちを理解することは出来ないと思います。私は舞台に上がり何かを披露する人間ではないからです。私は舞台を見上げる人間です。お芝居にもコンサートにも行きます。そうしていろんな舞台を見て、ある日、ふと思ったことがあります。舞台に立つ人間は、舞台を観る人間、全員を相手にしているんだなと。どこにも逃げれない。立つ人間と観る人間は対等ではないんだと思ったのです。観ている方は、舞台が面白くなければ席を立つこともできます。その気になればヤジを飛ばすことも出来るし、あくびをして眠り込むことも出来ます。でも、舞台に立つ人間はその場から逃げ出すことは出来ません。(ここにお金というものが入ってくるから対等な関係のように見えるけど、全然対等じゃないです。)
この「誰もいない舞台」を読んで、対等ではないのだと感じたことがあったということを思い出しました。そして、なんで対等じゃないかがエッセイを読んでよく分かりました。

彼女はこのエッセイの中で、自分がボクサーのようだと書いてます。リングにあがり戦う相手は自分の心だと。舞台の上に立つその目の前には、舞台を見ている人間はいない黒い海だと。

このエッセイは、舞台の上という華やかな世界で自分を相手に戦っているのよ。ということが主題ではありません。舞台に立つ側と観る側の「舞台」という存在に対する立場の違いです。双方にとっての「舞台」というのはそれぞれ全然別のものなのです。舞台に立つ人間が観ているのはリングの上の風景。向かい合っている相手は自分なのです。双方が対等なはずがありません。観ている風景がお互いまるで違うのです。
彼女は観る側の人に、舞台に立って歌ってればいいのでしょ。羨ましいわ。と言われ傷ついたと書いています。とても短いエッセイなのですが、その傷ついた心を静かに、とても正確に書かれています。

実は「舞台」というのは日々いろいろな場面で用意され、私たちは気がつかないうちにその舞台に上がっているのではないかと思います。舞台というリングに立ち自分自身と戦っている瞬間が、生活の中にたくさんあるということです。でも、それはリングに立った自分にしか分からない、観客には分からないのです。だから、たとえ勝っても拍手喝采はありません。

彼女のエッセイには、とても豊かで気持ちの良い生活が描かれています。読むとこちらも豊かな気持ちになります。これは、リングに上がり戦った人だからこそ感じとれるものだと思う、そんな豊かさです。羨ましいなと思う私は、まだまだリングで戦う必要があるのでしょう。だから私は、誰にも気づかれなくても、一人、リングに上がろうと思います。そして、いつかリングを降りた時に見える風景が、彼女の見た風景に近かったらいいなと思います。

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