死生観を振り返る

疫病蔓延で、改めて『死』というものと向き合った。

幼少期から20代まで、相当死にたかった。
理由はどんなにまじめに生きていても、まじめは評価対象にはならず、何も手に入らない。

いちばんキツかったのは、やっぱり保育園か高校か、まぁ小学校、中学校も、相当キツかったですね。

みんなが普通に買ってもらえるものが手に入らない。というのがキツかったですね。手に入らないものは、キンダーブックからピアニカ、算数セットなんていう副教材から、高校の制服まで手に入らなかったり、思い通りにならなかったりしたのでした。当たり前にゲーム関係も手に入らない感じだったのですが

なぜか小5のときに突然母がリカちゃんとか?着せかえ人形を買っていいと言い出した時は意味わからん。。。と思いました。今更?という感じでしたね。それまで紙人形の着せかえで相当がんばりました。まぁ、ばかにされます。だって、私は100円の紙人形で、女の子は3000円のリカちゃんですから、鼻で笑われるわけで。あと、なぜかハーピットというゲームを買ってくれました。第一子ルールのひとつに『自分の年齢と同じ年齢にならないと、同じ道具は与えてはならない』から買ってくれたのだと思います。第一子は小5でゲームウォッチ1つ、買ってもらっていたので。中学になったら音楽プレイヤーを買っていいというのがあったのですが、時代はCDで、まぁプレイヤー買っていいと母親は言ってくれたのですが、第一子が「なんでCDプレイヤーなんだ。レコードしか認めない」と言われた時は私が泣き出したのを見て、母親がさすがにブチ切れてましたね。肩身が狭い思いは18歳までつづくわけですから、

まぁ、死にたくなるのは当然だったよな、と。

父親が言い放った言葉は一生忘れることはないでしょう。

「おれは苦しんだんだ。おまえらも苦しめ」

。。。うーん、なんですが、たぶん本人は覚えていないでしょう。なかなかパンチがある言葉だったんですよ。これは「おれは与えられなかったのだから、おまえらも与えられないのは当然のことだからな」という意味だと解釈しました。実際、父親だけお金の負荷がなかったように思います。母にも第一子にも負荷は掛かっていましたが、私には更に負荷が掛かるわけです。

第一子の古物を着ること→Mサイズ以外は許されない

第一子が独自に考えたルール→私が第一子より優遇されることを許さない

結構ね、貧困層の勉強わからないは道具を与えられないこと以上に

『失敗は許さない』というプレッシャーだと思っています。貧乏は無駄をカットしていくのですが、『失敗は無駄』と言われましたね。「また無駄にした」という感じで、家族がペナルティを探しているんですが、たぶんそれさえも貧困ストレスからの粗探しというか、生贄つくりでストレス発散していたのだと思います。普通は子どもの時間に失敗しとけ!なんですけどね。いろんな意味で受け身の練習しろよ!のはずなんですけどね。

副教材に関しては「一時的なものは必要がない」という両親の考えは、実は勉学そのものを否定することになりました。学んで覚えることは一時的なことだからです。「3年経ったらランドセルが下がってくるんだ。それまでおまえは風呂敷で通え!」頭おかしい。父親は祖父母にそうされたのでしょう。時代が違う。第一子や私が「これが必要なんだ!」と訴えたところで「そんなものはクラスでひとりかふたりしか持ってないものじゃないか。そんなに特別な子になりたいのか!」逆だったのだが。。。クラスにひとりだけ持っていない状態だったのだが。。。

他にも、母親が「ママはもらえないから、あのポケットティッシュもらってきて」というのがあって、テレホンクラブの広告の入ったポケットティッシュを同時小5の私にもらってくるのを強要するんですよ。嫌なんですよ。学校に通っている時間というのは恥の文化の中で生きているのに、恥をかきに行けと。女だから性風俗の広告が入ったティッシュもらえるぞ!だったのですかね。。。

それで高校入学したら、おまえは通信で美容学校へ行くんだ!と。美容は金になるぞ!と。

。。。それはまんざら嘘ではないが、なんで美容学校の通信科のスクーリングって、わかりやすくヤンキー率高めなのだろう。。。

それでバイト先の花屋の指揮っているパートさんが病的な意地悪で、私がバイト辞めたら、他のパートさんも喧嘩して辞めちゃって、募集かけてもだいたい3日くらいで辞めちゃって、店がシフトが回らなくなって閉店になったと、平日バイトに入っていた友だちから聞いた。

セツ・モードセミナーは、独特の緊迫感はあったけど、緊迫感は普通のことなので、楽しかったな。2年後半で初川先生がいなくなったのは、まさか亡くなっていたとは。。。これも思い通りにはならなかった。「帰るのが遅すぎる。早く帰ってきなさい」セツ先生の死を知った時の後悔は「なぜ私は母親の言うことを聞いてしまったのだろう」というのでした。

「また、あなたなの?私、あなたの絵が好きよ」
「おまえは。。。おまえは上品だ!」

勉強という正解がある世界とは違う、美術や国語という正解があるようなないような世界で、私は。。。

「おまえの絵は金にならなかった。捨てなさい」

ドアの内側の世界は現実。普通は逆のはずなんだけどね。

これは死にたくなるな。普通だな。それでとどめを刺しにいった就職氷河期がはじまるのだけど、当時は就職氷河期という名詞が存在しない状態だったため、ドアの内側の世界で相当追い詰められていったけど

このネタだけで、相当おもしろいので、別の機会に。

ただ、今の誰にでも優しい世界は方向性として間違っていると思う。それだったら、ヘルプマークは必要ないはずだし、競争させない教育は会社で全員が社長じゃないとおかしい!という人間をつくりかねないし、国際化もおかしな感じになっていて、日本語ができての英語のはずだと思うんだけど

日本語もろくにできてなくて、英語もできないという子がいるように思う。

富裕層の子どもだけ、どっちもできているような。。。

ただ、間違っているかもしれないが、財力だけで見ると、実は日本語が深く理解できている方がお金につながるような。。。気がするだけかもしれません。。。

国語ができない子が増えることは、国力が弱くなるという意味ですよ。

今日のアウトプットは良くなかったな。

誰しも『死にたい』はある。それは

普通のことだと思う。

思い通りに行かないのが人生だったりするからなんだけど、その思い通りに行かない感じをいかにおもしろく笑い飛ばせるか。そこが人生の最大のテーマなんじゃないか?ということを

私もあなたも忘れないでおこうね。

『死にたい』という恥の文化の中にいた時間を思うと、今は相当しあわせだ。

お金については、お金は魔法の杖みたいなイメージを持つことが大切かもしれません。必要な道具を出すのに、お金が必要なのであって、必要な道具が手に入るルートとしては、人のために動くことで、お金というルートがなくても直に欲しいものが手に入る、という場合も現実にあります。盗むことではなく、

人柄がうつくしいと、与えてもらえることもある。という話です。

それは外見上で装うこととは、別物です。外見上で装うことの方がむしろ簡単です。お金を使えばいいだけのことです。

その人間からにじみ出る感性のようなものは、隠すことができません。形式的なものではなく、その人とはじめて会った時の楽しい印象とか、性格がいちばん近い感じかもしれません。

五感で必要とする感じが大切だったりするのです。

多少の失礼があってもね。若いからとか、かわいいからとも違うんだけど、明かりのような、灯台のような、水のような、そんな感じのひと。

thank you!

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