『愛の視覚化』ができる世界

使い方が完全に間違えている。

ネットの誹謗中傷問題だけど、なんていうか、完全に問題がある場合は『これは酷いよ』と白黒つけないカフェ・オ・レの視点から言わないといけない場合というのは現実とネットがリンクしていて、あります。そういう場合は大概

金銭が発生する場合、ジャッジされる。という部分からは逃れられないんじゃないか?というのはあると思います。

ただ、金銭が発生しない場合は、わざわざ本人に指示する必要はあるか?という駄文を観ることはあります。駄文と書けるのは、現在私は大人であり、子どもの頃の『駄文レベル』のことばをひとつひとつ丁寧に受け取っていました。そして心に刺さる『とても嫌な駄文』を心に刺したまま、決して抜くこともなく、『駄文というソード』が何千と何億と刺さるところがないくらいに心を刺し続けた結果として、心が無くなったり、すると体重が落ちていったり、なかなかのシーソーぶりでしたが、すごく時間が掛かりましたが

『人を言葉で殺す方法を学習してしまった』

と、わかった時、案外あっさり塩ラーメンくらいに感覚として染み渡り、『これは人からストレスのゴミ箱にされたんだな』と理解しました。ただ

周りが全員馬鹿者だな。と、早めにわかると気持ち的に楽かもしれないです。馬鹿者じゃない人はちゃんと存在します。そっちに行くには、

小さなことに気がついて動ける人である。

というのは大切かもしれないです。小さなことでくよくよする。のではなく、いわゆる名前のない労働のようなことが進んでできる。というような感じです。馬鹿者から観ると「あいつ、自分の株を上げようとしてる」とか、普通に言われます。そいつも自分の株を上げるようなことをすればいいだけの話なんです。なんでしないのかというと

見下したいというより、できないんです。

頭が良かろうが、悪かろうが、小さな労働をばかにしているんです。その小さな労働が習慣に変わるとどこか『当たり前』のような感じになります。当たり前なんてものはないんです。だから、小さな労働が当たり前になった時に、その小さな労働をやっていた人が入院とか部署移動とかでいなくなると、その時が評価の時になる。という感じです。そういう小さな労働をしないような人が

ネットで誹謗中傷を書くことを日課にしている感じなんだと思います。

ほんとうはそんな世界じゃないんです。

『◯◯さんは私にはできないことができて、すごいね』とか
『専門知識の量が幅が広いね』とか
『なんでも知ってるね』とか
『◯◯さん好き』とか

とてもさりげないことのように思うのですが、そんな人や自分が思う『人が人を尊敬した記録』いわば

『愛の視覚化』が、本来ならできるのです。
ただ、使い手に人間として問題がある。
それだけだと私は思っています。

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