【解釈】恋と愛の違いについて

※以前記事で投稿(タイトルからは解り難い)したものと全く内容は同じですが、文章として人に伝える事を目的としたメモ(2022年6月27日頃作成)を発掘したのでそれを貼るのみです。



恋と愛の違いについて。
夢の無い話をする事になります。
私、個人としてはある程度、恋と愛の違いについては明確なイメージが出来ています。

そのイメージが他の誰かと解り合えるかは分かりませんが、私はその考えをもとに、今後の経験から追加したり修正して、その都度に更新して生きる事が出来ればいいなと思っています。
私は、私の考えには大きな自信を持っていますが、絶対的なものだとは思っていませんので、今後に考えを変える予定はあります。

まず、私は恋愛創作が大好きです。創作とは、アニメや、漫画、小説、映画やドラマなどの物語を指します。また、恋愛をテーマにした楽曲の歌詞もそれに当たると思います。
恋愛創作においては、『恋愛(れんあい)』という一つの言葉で一括りに使用され、考えられていると思われます。
そこには、おそらく明確な定義は無いのかもしれませんし、人と人の間で共通した認識はないのだろうと思います。
恋愛創作とは、異性に関わらず、同性との間においても恋愛の可能性はあり、主要な登場人物のお互いが惹かれ、最初はバラバラの一人と一人であったハズが、時間と経験と共に、徐々に心が近付いて、身体も近付いて、いずれ二人になる、というものだと思います。
観客である私たちはそれを鑑賞し、登場人物に感情移入して、普段の日常生活において使われることのない感情が揺さぶられる事によって、感情失禁に似た快楽を得る事が出来るのだと思います。
私はその感覚が大好きです。作品に触れる事も好きですし、自分で妄想して考える事も大好きです。

私は現実においては、それとは違うと思います。
作品と現実の区別、それはある程度つけておく必要があると思っています。
私は『恋』と『愛』は別物だと考えています。
そして、『恋』については男性と女性の間では、きっと意味は違っていると思います。
『愛』についての男女間の認識の違いは、わかりませんが、きっと似た様な概念であればいいなと、思っています。

『恋』は、「好意を寄せて、お近づきになりたいと思った相手の事を考える、一人の期間」の事を指すと思っています。
では、恋の相手とは、どういうものか。
それについての話では、「相手の見た目ではなく、内面で判断をしたほうが良い」というような旨の言葉があると思います。
私も確かにそう思いますが、片方の要因を無視する事は出来ない。見た目と内面、その両方についてを考える事が必要だと思います。
私の中にある男性視点の恋、とはどういうものか。
それは、まず見た目から入ります。一度、目で見ただけでは、内面まで読み取って、判断ができないからです。
私たちは、知能ある人間でありますが、元は猿という動物だったと言われています。男と女、その異性同士がつがう、というのは動物的側面が強い、生物的な習性が根源にあると思います。
ですから、まず、第一段階として見た目が好みかどうか、から入ります。
見た目が好みかどうか、とは、具体的に相手の身体的特徴を見ます。
例えば「長くてサラサラして綺麗な髪の毛が素晴らしい」だとか、「高くて、形がしっかりとしている鼻の形に惹かれる」だとか、「長い首が綺麗だ」とか、「長い腕、綺麗できめ細やかで細い指先に見惚れる」だとか、「脚が綺麗で、しなやかで、長い」だとか、そういった相手の遺伝子の情報を視覚から読み取って、身体が反応します。
おそらく、相手の遺伝子が欲しい。生物としてその身体的特徴を得た子孫を残したい。というように、身体がそう勝手に判断するのだと思います。
そこには頭で何かを考える隙はありません。頭の、知性や知識や理性は関係なく、身体が勝手にそう判断します。
そして、理性はその後に動き出します。身体が勝手に欲しがっている相手の遺伝子に対して、恋という概念で自覚をして、相手の事が好きである理由については、後から頭で考えて整合性の取れる理由を作ります。
恋する理性は、相手に近づきたいと望み、そう努力する様になります。相手と関わりを持って、話をして、そして、相手の内面の事を考え始めます。相手の内面について話すのは、猿としての身体ではなくて、知性と知識ある理性です。
理性は、相手と近づく中で、共通点を見つけ始めます。
「◯◯について気が合う。同じ考え方をしている」という様な、お高いに合うところを見つけて、魂の形の類似性を感じ、ピッタリ相性について一喜一憂します。
相手に近付くと、嬉しいです。反対に、距離が離れてしまったり、嫌われてしまったかと思い込むと、心に大きなストレスがかかります。その恋の一喜一憂というものは、精神に大きな影響をもたらします。
それこそが、恋の期間であり、苦しみも含めて、恋の醍醐味である。
実は、この『恋』こそは、恋愛創作における『恋愛』と似た様なものだと思います。

ですが、恋愛における『愛』はそれとは違う。
恋愛創作における『恋愛』とも意味が違うと思います。
『愛』とは、もっと現実的なもの。
猿としての生物的な視点で言うと、『パートナーに生理的に嫌悪感を抱く事があるかどうか』。
例えば、生物として相性が良ければ、パートナーの体臭に嫌悪感を抱く事が無いのだそうです。ストレスを感じた時、汗をかいた時、起きた時など、パートナーが動物的に放つ香りに嫌悪感を抱いてしまえば、それは遺伝子的拒絶があり、いくら理性同士、考え方の相性が良かったとしても、遺伝子が嫌がっていて長続きしません。
理性的な性格の視点で見るのであれば、『パートナーとの性格の違いを「許せる」かどうか』。
私は、『愛』の本質とは、「許し」であると思っています。
『恋』では、「共通項」を探して幸せを感じましたが、『愛』では、「違い」を探します。
お互いの性格、それはが全て同じではありません。当然、違うところもあります。どうしても改善出来ない「癖」と呼ばれるものもあります。
お互いが同じ空間で、同じ時間を過ごす中で、その「違い」が見えた時、それが「気にならない」「改善しなくてもいい」と、心からそう思えるのが理想です。
「嫌だけれど、我慢をする」というのは、我慢には限界がありますから、ストレスが溜まっていつか爆発をしてしまいます。「我慢」で成り立つ関係は、長続きしません。
お互いの「違い」を見つけて、まるで歯車を噛み合わせるみたいにして、違った凹凸の歯車を回し続ける事が、『愛』だと思います。
また、恋愛における『愛』とは、これからも続く人生のことを指します。家族になる、という事でもあります。
家で暮らしている時、兄弟や父と母に対して、自分はどういう態度を取っているのか。いずれ二人の関係は、その態度の様になると考えます。いずれ家族になった時、自分が家で過ごしていた態度を、パートナーは受け入れてくれるのか、という課題があるのです。
これが、私にとっての愛の話です。パートナーと一緒に幸せになるとは、そういう話だと思います。

きっとそれは、一般的な恋愛創作における『恋愛』ではあまり考えられていない話のように思います。
よって、恋愛創作における恋愛は、現実には求めてはいけない。
それは正確には、創作や妄想だからこそ表現出来た展開を、現実で求めて、夢を見てはいけない。更には、知り合った相手に対してそれを求めてはいけない、という考えがあります。
現実の恋によって、憧れを持った、夢のような心理的体験をする事はあり得ると思いますが、その後の未来に、夢見る恋愛創作の様な展開を望んでしまうのは、ピーターパンではない現実の人間に、空を飛ぶように要求する様な話だと思います。

だから私は、自分自身とパートナーを失望させない為にも、恋愛に夢を描く様な事はしない。そういう決意を持っています。



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