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髪を切ったら

今日は休みなの、と訊ねられて、有休取ってて、と私は口を尖らせた。ライブに行く予定だったんだけどコロナで中止になってめちゃくちゃテンション下がるから美容室に来た、鏡越しに美容師さんと目を合わせながらそう説明した。新型コロナウイルス感染症に世の中が翻弄され始めた、2020年3月のことだ。



半年前から楽しみにしていたライブだった。希望していた東京会場と日程は倍率も高くて、当選はラッキー以外の何物でもなく、どんなに仕事で嫌なことがあっても「これも全てライブのため!」と思っていた。

2020年が明け、ツアーが始まりメンバーの楽しそうな写真がSNSに上げられるたびに胸を高鳴らせていたのに、1月を過ぎ、2月になった頃から雲行きが怪しくなり始めた。世の中のいろんなものが感染拡大により中止や延期に追い込まれてゆく。私が行く予定だったライブは相当ギリギリまで開催を検討していたけど、地方から東京へ行くのはリスクが高いからやめておきなさいと周囲が騒がしくもなっていた。運営が開催しようがしなかろうが参加するのは難しいのだろうな、でも行きたいよなと、だけど強行して私が罹患するのは自業自得でも周囲にウイルス撒き散らすのは話が違うじゃんと悶々としながら、スマホで情報収集する毎日だった。

2週間を切ってライブ中止と払い戻しの連絡が来たときは、悲しかったけど安堵したし、いやどちらかといえばやっぱりウルトラスーパーめちゃくちゃ悲しくて、当選通知のスクショを見ながら私は泣いた。


そのとき、めずらしく有休はすでに取っていた。前日に休暇届を出してもするりと認可される職場なのだけど、仕事と重なる可能性があったので先手を打っていたのだった。急にぽっかりと空いたスケジュールを見て、何しようと考えるまでもなく私はいつもの美容室の予約をした。最早、むしゃくしゃしたからやった、に近い感覚だったと思う。




顔を見るなり早々、いつもより来るの早くない? と言われた。私が美容室へ行くのはだいたい3ヶ月に一度、ひどいときは半年に一度になることも多い。10年来の担当美容師から「そろそろ来なさい」と人を介して言われるのが常なので、2019年の年末に来店して2ヶ月弱、確かにそのときはいつもより早かった。

「ライブに行く予定だったんだけど」
「うん」
「コロナで中止になって」
「あー、こんなご時世だもんねえ」
「めちゃくちゃテンション下がるから美容室に来た」

有休取ってあったし、と話した。半年以上前から楽しみにしてたのにさ、つらすぎるつらいほんとつらいむり、考えすぎると涙ぐみそうだったので勢いづいて感情を吐いた私の横で、iPadに表示されたカルテと私の髪の様子を見ながら、うんうんと担当さんは頷いていたと思う。なんとなく美容室に来る以外思いつかなかったと落ち込んだ私の肩を叩き、やはり鏡越しに目を合わせて、担当さんは快活に笑った。

「ずっと楽しみにしていた日にここを選んでもらえて光栄ですよ」




私が美容室に行く理由。新しい私に出会いたいとかきれいになりたいとか誰かに見てもらうためとか、きっといろいろあるのだろう。いつも同じ理由で行くわけじゃない。美容室は私の日常の中にあって、気張らなくてよくて、気張らなくていいけど来たときと帰るときでいつも必ず少しだけちがう私になれている、行きたいときに行ける私の日常の特別な場所だと思っている。「なんとなく勢いで」「そういう気分だったから」ドアを開けるときの曖昧な私を、滲んでよく見えなくなった感情を、美容師さんは髪と一緒に整えてくれる。見送られて街へ踏み出したとき、世界がきらりきらりと鮮明に光りだすのは、そういうことなのだと思う。




ろくに髪型のイメージも持たず、カラーさえも決めて来ず、鏡の前に座った私に仕方なさそうな顔をしながら、私の言葉の端々から掬いあげた何かで、うんうんじゃあこうする、決めた、とりあえず切るよー、と担当さんは私の背後へ回る。他のところ行かないとは思うけど他のところでこれされると大変だからね、ちゃんと決めてきなよねという彼に、決めてきたって自分が気に入らなかったらしてくれないじゃんと私が相槌を打つと、まあそれはそうなんだけどと、お互いに笑い合った。話を聞いていたアシスタントさんが、客の希望が通らない美容室ってなんですかと横からツッコんで、さらに笑い声が輪になってゆく。

悲しかったからここに来て、悲しかったけど楽しそうに鏡の中で笑っている私に、やっぱり美容室に来てよかったなと思った。感情がめちゃくちゃになったら美容室を予約するに限る。



仕上げてもらった髪型は、ビビットなピンクのインナーカラーをひそませた、心が弾む外ハネボブ。冬の匂いがまだ残る3月、薄闇にポツポツと外灯が光り始める、本当ならライブが開場していたはずの時間帯でも明るい気分で、私は美容室を出た。





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