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85|温泉津 湯の湧く湊

 大社を後にして、出雲市駅から浜田方面へと下る山陰本線に乗り、母の里の最寄りの大田市駅で、父と落ち合う。
 
 山陰本線は、主に海岸線沿いを走るので、車窓から日本海を見下ろす。父の里は、大田市駅からさらに30分ほど西へと下る、温泉津ゆのつにある。いつも帰省時に拠点とする、母の生家に顔を出してから、温泉津にある父方のお寺の法要に出席することになっていた。

 以前、『8|このくにの、祭りの効能』でも、温泉津のことをすこし書いている。
 小学校4年生の時に父親を亡くし、それから文字通り家を背負った父の生き様は強烈だ。父親が病に倒れて伏せるようになってから、父に実際の生きるすべを教えたのは、お寺さんや街の人々、親戚、道ゆく人々だった。
温泉の湧く街の家は風呂をもたず、毎晩共同浴場を使っていたから、大人たちの話に耳を澄ませて、生き抜く知恵にしていたのだろう。
 
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 温泉津の岬には、身投げの、つまり自殺の名所があって、父たちの幼い時分には、姿のみえなくなる人や一家があると、消防団や街の人たちが追って捜索に出たらしい。
父親の葬儀後、どうやって生きていこうかと途方にくれた母親(祖母)も、弟たちが寝静まってから、父にポツリと、「もうみんなであそこから身を投げようか」と、言った。10歳の父は、「死ぬならお母さん、あんたひとりで、死になはれ。」と言い放った。算段などない。
でも祖母はそれから、意地を出して働いた、と。

 祖母は、自分の足で、ひと山もふた山も歩いて越えて、山向こうの農家に魚の行商に行った。魚の対価はお米で、おおらかな農家の人々は、升で米を量るのに、すり切り棒を使わなかった。すると、わずかにマス上に山なりに盛り上がった分が、利分となって、祖母の懐に入り、父たち兄弟の食い扶持と食糧になった。

温泉津 小浜

 第168回直木賞を受賞した『しろがねの葉』ー湯の湧く湊ー に、温泉津の街の描写がある。

 温泉津は海に面した路地に家々が連なる街だった。
山から見れば、入り江を中心にすり鉢状になっているのがわかるが、いざ足を踏み入れると入り組んだ細道が続き、なかなか船着き場に辿りつけない。神社や寺も多く、あちこちに井戸があった。溝からは湯気がたちのぼっていた。

『しろがねの葉』千早茜著 ー湯の湧く湊ーより


 父の生家は、温泉旅館の立ちならぶ列とは別筋の、JR温泉津駅を出て小浜までをつなぐ道沿いにある。
『しろがねの葉』の舞台は、石見銀山最盛の17世紀あたりのはずなのに、街の描写は、21世紀のいまとほとんど変わらない…。

 温泉津は温泉地であるとともに、日本海沿岸の船舶交通の寄港地としても有名な場所であった。16世紀後半には既に集落が存在し、17世紀初頭には宿泊施設・商業施設を含む繁華な町に発展していた。

島根県>石見銀山遺跡について より


 小浜に出ると、その感はますます強くなる。
幼い頃から、みている風景がほとんど変わらない…。
ただ、街の家屋の灯りが、建物が、人の気配と活気が、少しずつ消えていくだけだ。

 父の帰省にはルーティーンがあり、まず近所、本家、親戚を一軒ずつまわり、「元気にしとりんさるかな?」と、遠慮なく上がりこむ。 
ひどいと一軒につき約1時間。その後、各所の墓参り。
これも、ことわりなく本家やら親戚の墓にまで及ぶ。
墓石を丁寧に洗い、花を立て線香を手向ける。
手を合わせて、なんまんだぶなんまんだぶと拝むと、最後に、祖父母の眠る極楽寺へ。
祖父母の代から、檀家として、大切にしているお寺。
ここで、僧正さんがお手隙であれば、また長話となる。

 母はそういうのを嫌がって、早くから温泉津に寄り付かなくなった。両親と温泉津を訪れたのは、四半世紀ぶりではないかと思う。 
今回は、挨拶にまわる家も少なくなって、各所訪問時間も、各5分以内に納まった。

  都市にいると、表層・表面的には、切れ目なく新陳代謝し変化しているかのようにみえるから、“街がおわる”なんて概念自体、成立しないかもしれない。

 でも、ひょっとしたら、ここは、街自体が、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、自らを閉じようとしているのかな…。と、今回の帰省では、なぜだかそのようなことを、ふと感じた。

  石見銀山と一体的に世界遺産登録されたときも、「温泉津は道が細いけぇ、大型観光バスが入られんけぇなあ…。」

 だからか、温泉津は相変わらず、静かで、穏やかだ。

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