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84|出雲 ヤマタノオロチと白うさぎ

 満月の日の、水の都松江の朝。
宿泊したホテルを出、JR松江駅に向かって、すこし駆け足気味に歩く。
水位は目一杯まで上がり、なみなみと。

 午後に両親と合流するまでのわずかな時間に、出雲大社へ。山陰本線で、大社行きバス乗換口の出雲市駅迄。
海と湖とが接近し、川が繋がりを保つ、不思議な地形。
往路に、朝陽を浴びる宍道湖を眺めるのは、はじめてかもしれない。
水は空をうつして、さらに青く、あおくひかる。

 瞼を落としていると、声がかかって、顔をあげると、右手に斐伊川ひいがわがみえた。
「あぁ、ヤマタノオロチ、やっぱり白いのだ・・・!」
静かな感動が、網の目のひだを一気に渡るように、広がっていく。

 鉄の出る奥出雲を源流に、日本海へと流れ出る斐伊川は、八方へと広がりながら裾野へとおりる、峰の霊脈と重なっているのではないかと思う。
 一方で、かつては、人間が山から鉱物を取り出すために、山の木が伐られ、木の根を失った土が流れた。土が流れれば、岩石も流れる。山は崩れ、保水機能が失われれば、大水となる。

 つながりの網の目は、いとも繊細なバランスで生きている。でも、生きているなら、活性しているなら、わたしにはどこか白く光輝いてみえることを知っていた。

**   

 小学校に上がる前、夏の帰省時のこと。
母方の祖母と田畑に出た帰り道、「おばあちゃん、なんさいまで生きたい?」と無邪気に聞いた。祖母は、いつもの柔和な笑顔で「そがあね、なおちゃん、ともちゃんが、はなよめさんになるまでは、息災でおりたいけぇな」と返した。

 それから、30年の月日はめぐり、最後に祖母に会いに帰った、名古屋への復路。大社へと向かう道中、わたしはひとり声を殺して泣き続けた。電車に揺られても、バスに揺られても、流水はやまない。本殿の傍に立つと、いよいよ激しくさめざめと声をあげて泣いた。体内水分に、こんなにも貯蔵があるのは発見だった。

 「間に合わなかった」事実が目の前にあった。
そんなに難しい夢だったのか?なによりも叶えてあげたかった、祖母の夢を叶えられない、自分が不甲斐なく、情けなく、やりきれなかった。それで、「どうして?」「いつも助けてくれるのに、一番助けてほしいこと助けてくれないなら、あんたたち意味ない!!」と…(苦笑)、一言文句と陳情に行ったのだ…。

 前にも後ろにも、1ミリも動けない。どのくらい立ち尽くしていたかわからない。諦めたようにそっと内に風は吹き、“あなたには、先にさせたいことがあるからね” 短くそう返ってくるまで。

ー そう、知っていた。そう、知っている…
と、きづいた瞬間に、やり場も行き場もなく渦巻き溢れ出ていた涙が、嘘のようにすっと引いた。決壊して、暴れ狂っていた糸は繋ぎ直されて、静かになった。

 次の春がきて、桜舞い散るなか、スポンジの軽さで家に戻った祖母を見送るとき、ふたたび怒涛の涙は流れたけれど、「おばあちゃん、ごめんなさい。許してね」とは、もう思わなかった。
“ありがとう、ありがとう。おばあちゃん、ありがとう。”
母と祖母をそっとみていると、母も、最後に一言、「お母さん、ありがとう」と伝えていた。

 「昔そんなことがあったんだよ」「それじゃ、今度行くときお礼と報告しないとね」と話していたのに、境内を歩くと、ふたりともそんなことはきれいさっぱり忘れていた…。

 一巡して、海へと。
照りつける陽射しの下、稲佐の浜まで歩いてゆく。

 ふいに、賢が、海の波音を背にして、大社の建つ山の方に向き直ると、「CALL AND RESPONSEコールアンドレスポンスだね」と、呟いた。
わたしも「うん」とうなづいて、あぁ、ほんとうに、、、そうだなぁ…と、応える。

 私たちは皆、ひと粒ひと粒が。無数の粒が。
CALL AND RESPONSEだ。

 強烈に降りる太陽の光に消毒され、海をわたる潮風に洗浄されて、私たちを構成し、包み込む粒の層が、幾分か白の輝きを取り戻している。


オマケ:名古屋に戻って数日後。顔が…ウサギ感…!?


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