桃を煮るひと
なにも語りたくない。誰の語りも聞きたくない。
相談もしたくない。だからといって言葉にならないものを写したいのでもない。
ひとりでいたいのか、だれかといたいのか、
自然の中にいたいのか、人ごみに紛れたいのか、
風が気持ちいいのか、光や影が美しいのか、
いまなにを撮っているのか、なにを大切にしているのか
何もわからなくなってしまった。
逃げ出したいことと向き合わなければならなかった。そんなの嫌だった。
なにかを信じて思い込むことでしか腑に落とせないなら、ずっと落とさず持っておくしかないのだ。
これでも作品にするのが芸術家なのだろうか。
すべてを見世物にしていかなければいけないのだろうか。
それが天命なのだとしたら私は芸術なんてやめてやりたい。
なんとなく、どうしても撮っておかなければならなかった四十九日間が終わった。撮らなければならない人生最後の日が終わった。
いまなら好きなものを撮れる。今まで撮ってきたものが大切じゃなくなったわけではないだろうに、美しい光や風や声や、においを、いまは撮ることができない。無人島から帰る車で身体が鉛のように重たくなった時、わたしはこの先もうなにも撮りたくなくなるのではないかと思った。写真なんてすっかりやめて普通に適当にそれらしく生きている自分を想像した。
帰って二日経つ。なにか、どうしても写真が撮りたい。毎日、たくさん、たくさんのなにかに向かってシャッターを無心に切る夢を見る。なにかが私を呼んでいる。
毎日早く起きて遅く寝る。写真漬けの日々だって久しぶりだった。少し、身体が、思い出した。私はたぶん、毎日錘のような塊に首を重たくしながら、現実世界とデータベースの世界と永遠に、交互に見つめ、にらみ、観察しながら、こうして生きていきたいのだ。それが芸術なのか何なのか知らないが、私はそういう生き物だった。形見だらけの身体が、まだ私を生きている。ならば撮らなければならない。語ろうが語らなかろうがどこにいようが逃げようが向き合おうが、なにがなんでも、撮らなければならない。何処にも居てられない自分がここに居ることだけ、思い出した。
明日から北海道へいく。
人生ではじめて降り立つ土地へ行くのは久しぶりだ。
ということで唯一この家で過ごせるのでわたしは桃を煮る。
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