3月11日に
今年もまた3月が来た。
6年ぶりに福島で過ごす3月11日だ。
今年はどうしても、福島の海に祈りたくて、南相馬に向かって車を走らせた。
途中、学生時代にお世話になった方を訪ね、南相馬の海を目指す。
晴天のもと、海は凪いでいた。
南相馬から国道6号を南下。
請戸小学校へ。
以前に来たのは6年ほど前だったが、ただの跡地だったと記憶してる。
震災遺構として綺麗に整備されたようだ。
展示を見ている間に、黙祷の方は昇降口前に集まってくださいとアナウンスが流れる。
昇降口を出た芝生で、集まった20名くらいの方々と、海に向かって手を合わせた。
防波堤の上にも人が並び、浪江の海に手を合わせている。
黙祷。
あの日、失われた命と、ふるさとと、残された人の心の傷と、それからの13年を想い祈る。
請戸小学校を後にし、国道6号を更に南下。
以前は立ち入ることのできなかった夜ノ森駅の桜並木を通り、大熊町を抜けて郡山に戻った。
震災から13年。
最後に浜通りを訪れてから6年。
正直に言うと、どんなに復興しているか期待して浜通りを訪れた。
相双地区沿岸を走ってわかったこと。
ここはまだ、復興の道半ばであるということ。
6年前から何も変わっていないとは言わない。
取り壊された建物や、整備された町並みもある。
だけどそれ以上に、津波被災地区のだだっ広い荒野、国道6号の側道に建てられるバリケード、いまなお残る帰宅困難地域。
山積みにされる、放射性廃棄物の黒い袋。
6年と言う時間を鑑みたとき、復興の歩みは限りなく遅い。
そのとき、原発事故に対して新しい憤りを感じた。
もちろん事故に対する思いはあの年の3月13日からずっと持ち続けていて、13年の間にいろいろなことを調べ、知り、向き合ってきたつもりだったのだけど、整理してきたつもりだったのだけど。
だけど、なんで。
なんでなんて、誰もわからないし、誰が悪いって話じゃないし、誰かをせめて解決する話じゃないってわかってるんだけど。
だけどなんで、こんなことになっちゃったのかなあ。
事故さえければ、3月12日に助けられた命がある。
事故さえなければ、ふるさとでもう一度がんばれた人たちがいる。
事故さえなければ、福島の海は、もっと明るかった。
そんなのわたしが悩む権利なんてないのかもしれないけど、住民の方々はそんな気持ちを13年間抱え続けてきているんだろうけど、今の私は、歩みの遅い復興の現実を目の当たりにして、今までとは違ったショックを受けている。
本当は、元気になってきている浜通りの様子を、能登の友人たちに伝えて、励まそうと思っていた。
だけどなんか、そんなことはできなかった。
特に浪江、双葉、大熊の様子を見るに、何も知らないわたしが何かを言える立場じゃないんだって思った。
震災を忘れない、とかじゃないんだ。
震災はまだ続いているんだ。あの土地で。福島の地で。
これから福島を生きていく者として、福島を担う子どもを育てる立場として、考え続けなきゃいけないんだと思う。
ほんとうの復興を。
そして、失われたふるさとの存在を。
科学の罪を。
散文になってしまった。
それくらい3月11日に心揺るがされている。
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