精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その五

大正元年に日活が小さな個人商店の合同によって生まれたのと同じことが、昭和十七年にもう一遍繰り返される。
日活·新興キネマ·大都映画の三社が大映として生まれ変わるのである。この大映がチャンバラ映画関係の総結集という形で映画会社としてのスタートを切る。
昭和十七年に成立した大映の社長は、当時の国策に適した文藝春秋社長の菊池寛だったが、実質的采配は、新興キネマの撮影所長だった永田雅一だったと言われる。実際戦後になってこの人は大映の社長となるのだった。
永田雅一という人は大正十三年に日活の庶務係として映画人のスタートを切る。学生アルバイトからコツコツ始めたこの人は映画の製作現場からスタートした人ではないのである。
大正終わりから昭和初期というのはサイレント映画全盛期で、みんなが同じように若く、みんなが同じように映画好きで、みんな同じように元気に走り回っていた。しかし庶務係という事務職の青年はその輪の中に入れないのである。彼は同じ条件を持ちながらも取り残されてしまった人間なのである。
青年時代にそんな経験をしたからこそ彼は、"乗っとり"と悪評を蒙るような独自の方法で、戦後、映画会社のトップにまでなったのではないかと、橋本治は分析する。
戦後大映の社長となった永田雅一だが、この会社は、『羅生門』『雨月物語』『地獄門』という作品で海外の映画祭の大賞をとっている。永田雅一は、戦後の日本で最初に"大作主義"を唱えた人だった。学生アルバイトからコツコツと映画人としての道を歩くしかなかった日陰の映画青年·永田雅一は、"名作の持つ名誉"というものの重味を誰よりも知っていたのであろう。暗い過去を払拭する最大の方法は、外からの輝かしい名誉以外にはない、それが日本の"近代"だったのだ、と橋本治は言う。
大映は昭和四十六年に倒産するのだが、その理由の一端が永田雅一の政治狂いだったと言われる。多額の政治資金を費やして政界とのコネクションを誇りたがる。彼はそのように"名誉"を欲したのであった。
昭和三十六年、それまでの時代劇とは異なるある作品が登場する。それが黒澤明監督による『用心棒』だった。
この映画の一番の画期的だった点を橋本治は、剣が"悪を倒す"以前に"人を斬る"ものだ、ということを画面に映し出したことにある、と言う。そしてその映し出し方が"音"によるものであった、と。"バサッ!バサッ!"と音を立てて切られる。"チャリーン!"と刀が音を立てて合わさる。これらはこの作品が最初であった。
そもそもチャンバラ映画には血が流れない。血が流れるのは怪談映画だった。血がタラタラと流れるだけで"怪談仕立て"はほぼ出来上がっていた。まだそういう時代であった。だからチャンバラ映画でも血が出たとしても精々直径十センチ程度の血溜まりが映る程度。この『用心棒』でも血はほぼ出てこず、"音"で人を殺すということをやってのけた。
このことは、東映の立回りが、格闘技でなく、華麗な白刃の舞い即ちチャンバラ·レビューである、ということを暴いたのだった。この『用心棒』の一撃により、昭和三十年代後半(1960年代)以降、東映時代劇は衰退へ向かい東映はヤクザ映画の世界へ変わっていく。と同時に日本映画そのものが、『用心棒』の"音"に気づかず、"音"が"血"の出るようなシーンに付随するものだったことにより、結局、血の出る情念の世界=残酷映画へと見当違いな方向へ向かう結果にもなった、と橋本治は言う。
この時期に大映は違う変貌を見せ、時代劇を送り出していた。大映のスターが変貌するのである。戦後のチャンバラ映画スターの基準を作ったのは東映の中村錦之助だった。若さと美貌と甘さ、それがスターの持つべきものとなり、大映にいた市川雷蔵、勝新太郎もその影響下にあった。しかし60年代になって市川雷蔵の"眠狂四郎"、勝新太郎の"座頭市"によって変わる。本来持つ雷蔵の"暗さ"、勝新の"豪快さ"が主張されるようになる。
それは、大映の映画が東映とは異なり陰影に富んでいたことによる。大映の時代劇は、時代劇でありながら、現代的な撮られ方をしていたのである。影のある現代的表現の時代劇は外国人にも受けるし、外国人のようになった現代の日本人にも受ける。大映がグランプリ作を出したのはそういう面もあった。
しかし本来日本人は、血みどろになってしまう世界までも明快に描いてしまう"美学"を持っている。浮世絵という陰影を持たない平面的な世界が、実は幕末に血みどろの世界を描いていた、ということだってあった。そこは、現代人にとっては"暗い"部分だったけれど、もっと前の人には"猟奇"としてあからさまにも平明であった部分なのである。そこに対し"暗い"という形で影をつけ、"暗い部分がある"という形で、曖昧なまま登場させてしまったのが"残酷"という名の現代表現なのである。この中途半端な登場が、現代人をひ弱にしたということもある、と橋本治は言う。
永田雅一の作品第一主義は、グランプリ作品を送り出して"外国にも通用した"という形で絶対なる自信を持っていたようだったが、それは、外国にも通用した分だけ、底が浅かったのだ、と橋本治は断言する。
一方いつもおんなじ"通俗"というものは、もうちょっと深くてもうちょっとこわいものを平気で描いてしまうということもあるのである。
そこで登場するのが、東映の"巨匠"内田吐夢監督である。

その六へつづく



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