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橋本治とミュージカル4

秦豊吉は昭和8年、宝塚入社以前に、小林一三に以下のような内容の手紙を送っている。 ·パリのレビュウは種ギレの感がある。踊りよりも歌に転じてきている。 ·レビュウに代わるものとして「オペレット」が圧倒的人気 ·ロンドンでは伝統的なヴァラエティが健在 ·将来日本の大衆に最も歓迎される芝居は、歌と舞踊とを多く含んでいるものであると確信している。今日ではそれは「オペレット」であり、映画に対抗し得る唯一である。 ·宝塚はこれまでのレビュウはそのまま継続的にやるとして、別種のオペレットに

    • 橋本治とミュージカル3

      橋本治にとっての「"日本の"ミュージカル」の"終わり"ははっきりしている。昭和35年12月から5回ほど続いた東宝ミュージカル『雲の上団五郎一座』である。なぜこれが"終わり"なのかというと、これ以降、日本のミュージカルは、"本格"ミュージカルの方向に進み、昭和38年の『マイ・フェア・レディ』上演によってその方向が決定的なものとなったからである。 『雲の上団五郎一座』は菊田一夫作並び演出、エノケン、益田キートン、三木のり平、八波むと志、越路吹雪などが出演した爆笑哄笑公演である。俗

      • 橋本治とミュージカル2

        橋本治の脚本で最初に上演されたものは、『月食』である。演出は宮本亜門。1994年1月に東京、3月に神戸で公演された。 この脚本執筆の経緯は、宮本亜門から橋本治へ、会いたいという話があったことによるらしい。それまで橋本治は宮本亜門の芝居は観たことがなかったようで、話があってから、出演していた『変身』を観に行ったそうな(週刊文春のインタビューでは『メアリー·スチュアート』の再演は観ているという記述あり)。 会って話をしてみると、宮本亜門が高校生の時にミュージカルやりたい、と思った

        • 橋本治とミュージカル 1

          橋本治は『根性』収録「渋谷の歩行者天国'86」のなかで次のようなことを言っている。 "チャンバラ映画の本の中に、実は"日本のミュージカルの歴史"っていうのをキチンと入れないとマキノさんの位置っていうのは浮かび上がって来ないようなもんで、まだそこまではやれてない。" そう書いて、その後も日本のミュージカルの歴史についてはしっかりとは書かれていない。以前こちらのnoteでも触れた『川田晴久と美空ひばり』に寄稿した「日本式ザッツエンターテインメント」が最もしっかり書かれたものかもし

        橋本治とミュージカル4

          橋本治とマキノ雅弘

          橋本治はかつて、(おそらく)一度だけマキノ雅弘(雅裕)と仕事をしている。時は1986年。 きっかけは、本木昭子に『完本チャンバラ時代劇講座』を送ったこと。本木昭子とは、モデルの山口小夜子のマネージャーでいろいろなイベントの企画やプロデュースなどもしていた方。橋本治とは、1984年に柏ローズタウン開店五周年記念に、橋本治の手編みニットファッションショーをやっていた。 1986年1月、本木昭子は、渋谷に新しくできる東急のファッションビルの開店イベントの準備をしていた。そこへチャン

          橋本治とマキノ雅弘

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』終講

          全盛期の東映チャンバラ映画は"みんなおんなじ"だったが、それは、どんなものでも手を変え品を変えて結局みんなおんなじものにしてしまうという、非常に手のこんだ"みんなおんなじ"だった。 その一端を担っていたのが沢島忠監督である。この人の魅力を一言で言えば、みんなが走ることである。色んな人間の集団が、色んな方向から大クライマックスへ向けて走るのである。 色んなものが喚声を上げて走ってくる。その走ってくる為に、色んなものがキチンと"色んなもの"として描き分けられている。一緒くたにする

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』終講

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その八

          『大菩薩峠』が都新聞紙上に連載を開始したのは大正二年九月。そして大正二年は、"大衆小説"の誕生年と言われる年でもある。この大衆小説の誕生は『大菩薩峠』の連載開始とは直接の関係はない。"大衆小説"は講談との関係から浮かび上がってきたものなのである。 明治時代に全盛期を迎えていた講談には話したことを記録する速記があり、その速記本が大衆の読み物として広まっていた。速記術は舶来の技術ということもあってか、速記者という存在は講談師の存在より重要で、重要であればこそ威張っていたのである。

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その八

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その七

          内田吐夢は『宮本武蔵』以前、昭和三十二年に『大菩薩峠』三部作の第一作を撮っている。この第一作ではまだ一滴も血が流れない(殺しのシーンはあるものの)。しかし翌年の第二部では平然と血を飛ばしている。例の『用心棒』の三年前の作品である。それが必要ならそれは登場する、それが内田吐夢であるから、それまで血はなくとも、ここから血がいるとなれば平然と血を流すのである。 内田吐夢という人の頭の中には"矛盾"というような考え方がなかったのであろう、と橋本治は言う。だから平気で"なんでもアリ"な

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その七

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その六

          内田吐夢は、東映の誇る"巨匠"である。多くの日本映画の"巨匠"達と同じように現代劇と時代劇の両方を撮っているが、この人ほど現代劇と時代劇で徹底的違いを見せた人はいないと橋本治は言う。現代劇では、"社会派の巨匠"達がやるようなリアリズムをもって撮影するのに対して、時代劇では平気で陳腐な絵空事を出すのである。その例として橋本治は昭和三十六年から一年一作のペースで作られた『宮本武蔵』全五部作の三作目『宮本武蔵·二刀流開眼』のシーンを挙げる。 剣の道を志し、京にやって来て名門中の名門

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その六

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その五

          大正元年に日活が小さな個人商店の合同によって生まれたのと同じことが、昭和十七年にもう一遍繰り返される。 日活·新興キネマ·大都映画の三社が大映として生まれ変わるのである。この大映がチャンバラ映画関係の総結集という形で映画会社としてのスタートを切る。 昭和十七年に成立した大映の社長は、当時の国策に適した文藝春秋社長の菊池寛だったが、実質的采配は、新興キネマの撮影所長だった永田雅一だったと言われる。実際戦後になってこの人は大映の社長となるのだった。 永田雅一という人は大正十三年に

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その五

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その四

          大正十四年の『雄呂血』は、阪東妻三郎の個人プロダクションによって製作された。既にこの当時彼にはそれだけの人気があったということであるが、それを可能にする保護者がいた。それが、初めてチャンバラ映画を作った"日本映画の父"牧野省三である。 牧野省三は、日本で最初にチャンバラ映画を作った人だが、それは牧野省三が自発的にやったことではなく、映画撮影用の機械と資金を渡して、映画の撮影を頼んだ人物がいた。それが横田永之助という興行師だった。 牧野省三も、京都の千本座という芝居小屋の息子で

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その四

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その三

          大正十四年二川文太郎監督、阪東妻三郎主演の『雄呂血』という映画がある。この映画を戦前派チャンバラ映画の巨匠伊藤大輔監督は"時代劇の悲愴美の極致"と表している。 この映画がどんなものかというと、阪東妻三郎扮する主人公の若い侍に御都合主義的に悲劇が襲ってくる、そういう映画である。ご都合主義的に悲劇に落ちていく主人公はまったく抗弁をしない。それがなぜかといえば、この映画がサイレント映画だからである。サイレント映画は映像描写で見せていく音のない世界なので会話は限定される。だから主人公

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その三

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その二

          沢田正二郎という人がいた。彼は演劇としての"チャンバラ"を生み出した人である。彼が作った新国劇という劇団が剣劇というジャンルを拓いたのである。 チャンバラ映画は歌舞伎から多くのものを受け継いでいるが、チャンバラであるところの立回りは受け継いでいない。 歌舞伎は、見せ場はスローモーションでお送りします、というようなものなので、立回りは大掛かりになればなるほどテンポが落ちる。沢田正二郎は、これを、今現在普通に見られるようなテンポに変えたのである。 ではこの沢田正二郎はどこから出て

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その二

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その一

          第四講の主役は"青年"である。 まず橋本治が提示する青年は、黒澤明監督映画『椿三十郎』である。青年達を加山雄三を中心とする東宝の若手陣が演じている。 正義で真面目で好感の持てる加山雄三は、城代家老の甥を演じ、伯父の家老に意見書を提出する。しかし伯父はニヤニヤ笑って相手にせず、そんな伯父に愛想をつかした加山雄三は、大目付の菊井さんをたよる。 青年たちはこの菊井さんを、"本物だ"と評価し頼るのである(もちろん悪人である)。 そんな青年たちの前に、「手前ェ達のやることは危っかしくて

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その一

          橋本治と川田晴久 その三

          川田晴久と相似形をなす存在、マキノ雅裕。 ここで橋本治は、1940年の『清水港代参夢道中』というマキノ監督、主演片岡千恵蔵の映画を紹介している。 この映画は前年に作られた『清水港』という映画の続篇という扱いで、「清水の次郎長物語」を題材にした設定を踏襲している話になっているのだが、これがSFで、浪曲入りバックステージ·ミュージカルになっている、という不思議な映画なのである。 主演の片岡千恵蔵は舞台の演出家、演出している舞台が「森の石松」。演出に苦悩して、うとうと眠ってしまい、

          橋本治と川田晴久 その三

          橋本治と川田晴久 その二

          三木鶏郎は川田晴久より七歳若い。あきれたぼういずのレコードが出た頃は東京帝国大学法学部の学生で、そのレコードを全部買っていたらしい。 彼の名を有名にしたのは、1947年10月に登場したNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』である。この番組は1952年に『ユーモア劇場』と模様替えして1954年6月まで続く。これらは「冗談音楽」の別名を持ち、三木鶏郎はラジオをとおして、「へんな歌」を送り続けた。 浅草のステージで生まれたあきれたぼういず·川田晴久は生粋の芸人で、喰らいつかんばかりの芸人

          橋本治と川田晴久 その二