橋本治と川田晴久 その二

三木鶏郎は川田晴久より七歳若い。あきれたぼういずのレコードが出た頃は東京帝国大学法学部の学生で、そのレコードを全部買っていたらしい。
彼の名を有名にしたのは、1947年10月に登場したNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』である。この番組は1952年に『ユーモア劇場』と模様替えして1954年6月まで続く。これらは「冗談音楽」の別名を持ち、三木鶏郎はラジオをとおして、「へんな歌」を送り続けた。
浅草のステージで生まれたあきれたぼういず·川田晴久は生粋の芸人で、喰らいつかんばかりの芸人魂の持ち主だが、東大出の三木鶏郎は違う。いい意味でのアマチュアリズムがある。
自身で歌いもしたが、三木鶏郎は作者の側の人間だった。だからその笑いは「体当たり」ではなく知的であり、その歌の根底には可愛らしさとリリシズムがある、と橋本治は言う。
服部良一が笠置シヅ子のために『エッサッサ·マンボ』を書く前年、三木鶏郎は、『チンチロリン·サンバ』という曲を書いている。作詞作曲編曲まで三木鶏郎で、歌うは榎本健一と宮城まり子である。題名や歌詞はとんでもなくへんなのだが、中身はちっともへんではなく、リズミカルで可愛い歌だと橋本治は言う。三木鶏郎の曲の特徴を橋本治は、「雑多さ」を切り落としてよくセーブされている点に見る。へんな歌詞でも十分に計算されすっきりまとまっているのである。スタジオの中で生まれ、電波によって家庭に直接流されることを前提にされているので、歌そのものが一つのバラエティショーのように構成され、完成されているのである。
笠置シヅ子の歌が、ステージで大声で歌われることによって真価を発揮する歌であるのとは大きく異なる。そして、この点が、あきれたぼういずから出たものであって、あきれたぼういずとも決定的に違う点なのである。
三木鶏郎は、それまでの日本のショービジネスの道を、映画や舞台から、ラジオやテレビのメディア中心とする方に変えていったのだ。1954年に「冗談音楽」は終止符が打たれるが、「三木鶏郎の時代」は本格的に展開することとなる。

1956年東京宝塚劇場で菊田一夫演出の「東宝ミュージカル」第一回公演が行われた。音楽担当は三木鶏郎である。翌年には第二回公演が行われテレビ中継もされている。
この東宝ミュージカルは、戦前の浅草や丸の内や新宿で上演されていた、エノケンやロッパによるステージショーの戦後的集大成で、三木鶏郎の下で育った喜劇人や宝塚出身のコメディエンヌの主だったところが皆出演していた。
日本的なショービジネス=ステージ·ミュージカルの伝統は、この「東宝ミュージカル」を最後に消えることとなる。
1963年日本初のブロードウェイミュージカル『マイ・フェア・レディ』の出現によって、「今までの日本のミュージカルは本物じゃない、みんなアチャラカの二流だ」というレッテルを貼られることになるからである。
戦後のショービジネスは、戦前のスター達を「古い」として振り払いながら、繁栄への道を突き進んだのである。
川田晴久が死んだ1957年は、まだ戦前と戦後は明確に分離されず、すべてが混在する豊かさの中だった。翌1958年は、戦後の断絶を表すウエスタン·カーニバル--ロカビリーブームが爆発する年である。川田晴久の死は、戦前から続いて輝いていた「戦後」という時代の終わりをも語っていた、と橋本治は言う。

ここまでは、川田晴久がいた場所·日本的ショービジネスの世界の変遷である。いよいよここからは川田晴久本人が、一体何をした人なのか、である。
その補助線として登場するのが、川田晴久と相似形をなす存在、マキノ雅裕と広沢虎造である。

その三へ続く


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