精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その八

『大菩薩峠』が都新聞紙上に連載を開始したのは大正二年九月。そして大正二年は、"大衆小説"の誕生年と言われる年でもある。この大衆小説の誕生は『大菩薩峠』の連載開始とは直接の関係はない。"大衆小説"は講談との関係から浮かび上がってきたものなのである。
明治時代に全盛期を迎えていた講談には話したことを記録する速記があり、その速記本が大衆の読み物として広まっていた。速記術は舶来の技術ということもあってか、速記者という存在は講談師の存在より重要で、重要であればこそ威張っていたのである。
この明治期には浪花節が台頭し全盛期を迎えようとする頃でもあった。浪花節は講談と異なり三味線の伴走音楽がつく芸能であった。幕末の"でろれん祭文"という物乞いをする放浪の芸能者の節が洗練されて出来たのが浪花節であった。
庶民はリズム、メロディーのある浪花節に熱狂し大流行となる。そうなると当然浪花節の速記というのも登場する。講談の速記を載せていた『講談倶楽部』が臨時増刊として『浪花節十八番』という一冊を出したのだ。これに対し速記界のボスがクレームをつけ、落語家、講談師が文句をつけた。「祭文語りと一緒にするな」と。
商売をする講談社としては、商売の機会を逃すわけにはいかないので、この抗議を蹴って、ダメなら新しくつくればいいと、速記録ではない、専門の文筆業者による"新講談·新落語"を作るということになって、ここに大衆小説の創作が始まることになったのだった。これが大正二年の出来事である。
大衆小説の始祖的存在である新講談の書き手は主に新聞記者であった。そのため新講談から大衆小説の流れは新聞記事から小説へという流れでもある。
講談はお客さんに語るものである以上、芸人はお客さんに頭を下げて語る。新講談も基本的にはその流れを汲むもので新聞記者というインテリが読者に頭を下げるような文体であった。がしかし新聞というものは正義を広めるもので、平気で悪を糾弾する。お客さんに向かって頭を下げるという態度では全くなかった人がそう簡単に頭を下げられるものか?
というわけで、別に頭を下げる必要はないんじゃないか、という曲解が生まれ、その結果"いい加減なことを平気で書く"というレベルの低下、読者への見くびりが大衆小説において起こるのである。
では同じ大正二年に始まった『大菩薩峠』はどうなのか。一般的にこの小説はいわゆる"大衆小説"と言われている。それは"チャンバラのある小説"だったことが大きい。何故か日本では"チャンバラのある小説"は全部大衆小説にされてしまう。
『大菩薩峠』第一回の文章は次のようなものである。
"大菩薩峠は上り三里、下り三里、領分は甲斐国に属して居りますれど、事実は武蔵と甲斐との分水嶺になります"
この文体で明らかなように、中里介山は、三遊亭円朝や講談師と同じように、お客さんに対して頭を下げている。これもまた大衆小説だと思われる要素である。
しかし橋本治は、この『大菩薩峠』は、先に書いたような意味での大衆小説如きものと一緒くたにされるようなものではない、と言う。その理由は"人間"が描かれているからだ、と。小説というからにはどんなものも人間が描かれいるはずだと思われるかもしれないが、問題はどのように描かれているかなのである。ここから橋本治は、『大菩薩峠』の引用をふんだんに用いて、具体的に示していくのだが、ここではザックリまとめてしまう。
その1、人間とは理由もなく理不尽な行為をしてしまうものであり、そこまで描かなければ人間を描いたとはいえないが、『大菩薩峠』にはそれがある。理不尽な行為とは説明された時点で"理不尽な行為"ではなくなってしまうが、『大菩薩峠』では、この大長編の発端、机龍之助が老巡礼を斬る理由が一切説明されていないのである。
説明されていないうえで橋本治は以下のように分析する。
机龍之助は沢井村の剣道場の跡継ぎ"若先生"である。剣の腕も誰もが認める存在。いわば優等生である。しかしこの剣の腕とは木刀での話である。そもそも剣術とは人を斬る技術を教えるものである。人の斬り方を教えて、決して人を斬ることは教えない、この矛盾はなんだ、と優等生の机龍之助が考えてしまったらどうなるか、ということである。
机龍之助という優等生は、"剣術は人を斬るという行為につながっている"という自分が学んだ"論理"が、"しかし現実は人なんか斬るものではないし、斬ったりしてはいけない"という"非論理"に吸い込まれていたから、自分の学んだ"論理"を伸ばしていっただけなのである。論理を突き抜けたところに行き着いた優等生はどうしたらいいのか分からなくなって平気で狂う、というようなものである。
中里介山はもちろんこんなことは説明していない。説明しないでただただ机龍之助を描写する。例えば、
"一昨日大菩薩の上で巡礼を斬った武士---しかも、なりもふりもそのときのままで"、と。
これは明らかに、「二日前に人を斬ってそのまんまの格好で彼はどこかをふらついていた、これは異常じゃないか」と言っているのであり、「異常だけど、その当人が自分の異常に気がついてない以上、私は知らん顔をしていましょう」と黙って言っているのが中里介山なのである。
その2、男の領域とは重ならない女の領域がチャンと書かれている。
男と女は互いに違う領分を持っている。重なっている部分もあれば重ならない部分もあるから男は女を分からない。『大菩薩峠』は、男の領域とは重ならない女の領域が書かれた滅多にお目にかかれないような小説なのだ、と橋本治は言う。
女は男の領域の中で女を演じている。と同時に自分の中でそれとは別の"女"を演じる。それは男の世界観では"非論理"なのである。
『大菩薩峠』のお浜は、男の領域の中で実直な女を演じる"女の優等生"である。"男の領域"が支配する"世の中"にあって、女のための"正規の学校"はない。ない以上全て独学である。結果お浜は"才気の勝った女"と書かれる特殊な女となる。"才気が勝る"とは、"情"が"才気に負けている"という、"情に欠けている"そういう"女の優等生"である。
実直な女を演じる優等生お浜にとって、理想の男性とは自分に実直な女を演じさせてくれる男である。だから簡単に巡り会える。そう思い込めばいいのだから。よって宇津木文之丞と出会い妻となる。彼は机龍之助のライバル的存在。お浜は実直な妻として、文之丞を勝たせるために龍之助に不正を持ちかける。自分に実直な妻を演じさせる能力がないと見るや今度は龍之助と駆け落ち。そして優等生同士の夫婦喧嘩が始まる。お浜は「どうして私にキチンと実直な女、理想の妻、優等生の女を演じさせてくれないんだ」と。一方"自分の論理"こそが正しく、それ以外の論理なんか存在するはずはないと考える男の優等生机龍之助には"女の論理"(=非論理)なぞ当然分かるはずもなく、理不尽なものでしかない。自分の論理、世界観が覆されることに我慢ならない優等生は、当然の帰結としてお浜を殺すのである。
大正二年に中里介山は既にこのような夫婦喧嘩を描いていた。

『大菩薩峠』は現実を失った男達と、そういう現実の中で平気でブヨブヨと揺れ動いて行く女達の物語である。中里介山は、"現実を失っている"彼等を描くのに「明治維新まで、あと何年」というような時代背景がふさわしかろうとしてこの時代を選んだのだろう、と橋本治は言う。その点で『大菩薩峠』は、識者には"荒唐無稽"と言われてしまうような、"小説のチャンバラ映画"である、と。
"チャンバラのある物語"が私達の前で存在している、存在していた、ということは、安政六年からこの方、私達はズーッと"現実"を失っていた。"自分の現実"はあったかもしれないが、その自分達を位置付けられるような外側の"現実"というものをズーッと失っていた----言ってみれば悪夢の中を漂っていたに等しいのである、と。この安政六年とは『大菩薩峠』発端の年である。
安政六年が、日本という国が"現実"を失う最初の年なら、大正二年は、「その人間は"現実を失っている"ということを前提として存在している」というところから始まる"小説"が最初に登場する年である。
大正二年にはまだ"剣劇"はなく、阪東妻三郎というチャンバラスターもいない。"それ以前にチャンバラはない"という一点で、すべては『大菩薩峠』に始まったのである。そしてそれは"未完のまんま"である。未完のまんま平然と知らずに"失われた現実"即ち"悪夢"を私達は続けてきたのだ。
なぜそれを知らずにいたのか?昭和三十九年NHKが『赤穂浪士』を一年放映した年に、私達は"物語"という"夢"を捨てたからである。高度成長という"現実"があって、そこで"現実にある豊かさを獲得する"というドラマを日本人はそれぞれに演じ始めてしまったのだ。世の中はもうすべて「これでよし」として。
日本人は"半歩"だけを進めて、後の"半歩"を置き去りにし宙ぶらりんになったままなのだ。


第四講了



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