精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その七

内田吐夢は『宮本武蔵』以前、昭和三十二年に『大菩薩峠』三部作の第一作を撮っている。この第一作ではまだ一滴も血が流れない(殺しのシーンはあるものの)。しかし翌年の第二部では平然と血を飛ばしている。例の『用心棒』の三年前の作品である。それが必要ならそれは登場する、それが内田吐夢であるから、それまで血はなくとも、ここから血がいるとなれば平然と血を流すのである。
内田吐夢という人の頭の中には"矛盾"というような考え方がなかったのであろう、と橋本治は言う。だから平気で"なんでもアリ"なのだと。そしてこの"なんでもアリ"のこわさは、平気で"なんにも描かないこわさ"まで見せてしまうといい、『大菩薩峠·第二部』のラストシーンを紹介する。
燦々と陽の降り注ぐ甲州路を進む武家の行列の中にいる駕籠。その中には机龍之助がいる。第一部で失明した彼は盲目である。テーマ音楽が流れ始め、映画がもう終わりだなと思った瞬間、突然、この机龍之助の乗っている駕籠がバラバラと壊れるのである。駕籠が壊れると、辺りは一面薄靄の立ちこめる青い闇。いきなり出現した何もない世界に、盲目の机龍之助は黙って手探りで歩き出す。音楽が高鳴って"終"。
陽光燦々たる街道が、誰も予想しなかったいきなりの闇。盲目の机龍之助は"無明の闇"の中にいるのである。突然"実景"が"心理"に変わるのだ。そしてその闇は明らかに東映スタジオ内の作り物なのである。
観客は、この世界の一切はすべて作り物に取り囲まれてしまっていて、だからどこへでも行ける、だからどこへ行くのかわからないという、そういう得体の知れない続き方が平然とそこには存在している、そのことに気がついてこわくなるのである。その作り物はひょっとしたら生きているのかもしれないと。そしてさらにそこから遡って、「今までのすべてにも全部劇の意味が隠されているのかもしれない」、そう思わされるのが内田吐夢の"平明さ"であり、不気味な点なのだ、と橋本治は指摘する。このことを橋本治は、気がついたら平然と異様になっていて、そのことに気がついたらそれが当たり前になっているというそういう"異様さ"なのだと言い換え、例としてさらにもう一本の作品を紹介する。それは歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒』を映画化した『妖刀物語·花の吉原百人斬り』である。
舞台は吉原、大夫の花菊は、ナンバーワンの大夫を目指している。その玉菊に入れあげ、身請けして彼女と結婚する気でいるのが、田舎から商用で江戸に来た実直な佐野次郎左衛門。
結局佐野次郎左衛門は玉菊に全財産を吸い上げられ田舎へ帰る。「もう一度、一からやり直しだ」なんてことを言う彼は、実際はもう一度江戸へ戻って玉菊を殺すつもりでいる。
田舎で自分の一切を処分した佐野次郎左衛門は、妖刀村正一振りだけを手に江戸へ戻る。江戸の吉原では、玉菊が出世して八橋大夫と名を改め、花魁道中が始まろうとするところだった。八橋大夫が、"傾城本飾り"という日本の装飾文化が生んだ一つの頂点のようなメチャクチャ派手な格好で、吉原仲之町の大通りを練り歩こうとするまさにその時、血相変えて斬りかかる佐野次郎左衛門。ここから先の描写が内田吐夢本領発揮するところである。
襲いかかられて八橋は仰天する。すぐ切られてもおかしくないような格好をしているにも関わらずすぐには斬られない。下駄を脱いで必死に逃げる。追う次郎左衛門。次郎左衛門の手が八橋の打掛にかかる。八橋さらに逃げる。打掛はズルズルと脱げる。さらに追う。帯に手がかかる。ズルズルとほどける。這って逃げる。長く垂れた髪の端に手がかかる。それでも逃げようとする八橋を遂に次郎左衛門は突き通す。絢爛豪華な百メートル人殺し障害レース。
済ませようと思えば一瞬で済むこのシーンを内田吐夢は満開の桜の下の運動会のように延々と映す。ここだけ進行テンポはガクンと落ちる。まるで斬ろうとして斬れない男の前に、絢爛豪華な綿の底なし沼が広がっていくように、このシーンは延々と続く。
内田吐夢が表沙汰にしたいのは、女を殺すその情景を見つめる男の目。"女を殺す"という極端を表沙汰にしてしまえば、そのことによって自分の内部を重くふさいでいるものがどんなものなのか、そのことを見極めることが出来るかもしれないという、そんな男の目に見えるようなすべてを描きたい、ズブズブと綿の底なし沼に這い込んでいく、情熱につかれた実直な男のすべてを描いてしまった後、初めて「"女を殺したい"と思っていたんだ」という気づき方をする、そんな男の全貌を、実は内田吐夢は描こうとしていたんじゃないかと橋本治は言うのである。なぜならこの映画を観れば「自分の中に明らかに女を殺したいと思っている何かがある」ということに気づく筈だからと。
内田吐夢という人は、それを観て、すぐ「女を殺したい」と観客に思わせるような、そんな扇情的な作り方はしない。「本当に殺したいと思っている---だから絶対に殺せない」という、二重の絞め殺し方を観客に仕掛けてくるような、そんなこわい作り方をする人なのだ、と橋本治は言う。
男は"人を斬るドラマ"を作るが、決して女がそのことを分かろうとはしないということに男が気づいて、男は女を斬る。
初めっから明らかだった肝腎なこと、結局男のネックは女であり、すべてのネックはそこにある。
その初めは大正二年、中里介山『大菩薩峠』の連載開始に遡る。

その八へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?