橋本治とミュージカル2

橋本治の脚本で最初に上演されたものは、『月食』である。演出は宮本亜門。1994年1月に東京、3月に神戸で公演された。
この脚本執筆の経緯は、宮本亜門から橋本治へ、会いたいという話があったことによるらしい。それまで橋本治は宮本亜門の芝居は観たことがなかったようで、話があってから、出演していた『変身』を観に行ったそうな(週刊文春のインタビューでは『メアリー·スチュアート』の再演は観ているという記述あり)。
会って話をしてみると、宮本亜門が高校生の時にミュージカルやりたい、と思った感覚などが、自分と似ていると思ったそうである。実際宮本亜門は高校時代に『ゴッド·スペル』を自分たちでやったらしく、橋本治は日本ではあまり持ってる人がいないであろう『ゴッド·スペル』のLPを持っている、というエピソードを語っている。
そして何をやろうかという最初の打ち合わせの時には、『歌ふ狸御殿』がいいとか、『安寿と厨子王』も一度キチッと取り上げたいとか、あげくは上演時間9時間の"ある"ストレートプレイをいつかはやってみたいという話にまで盛り上がったそうである。
この『月食』は紀元前のインドが舞台、脚本橋本治に加え、音楽がホッピー神山、舞台美術が横尾忠則、と"異才"揃いである。
台本を見た宮本亜門が、ミュージカルとは言いたくない、新しいカテゴリーが欲しいと言い、橋本治の書いたものの中に残っている体質としての歌舞伎を敏感に察知したことにより、"サイケ歌舞伎"と銘打たれている。
これに対し橋本治は、公演終了後、『広告批評』で「カーテンコール」と題して行われた宮本亜門との対談で、芝居のコンセプトとしては歌舞伎ではなく、菊田一夫の東宝ミュージカルだ、と言っている。オーケストラが下座がわりで、まだ幕が閉まったままでオーケストラの演奏が始まって、幕が上がって、適当なところで歌と踊りが入って、あとは芝居、という昭和三十年代の一番当たり前の芝居で、いま一番忘れられている芝居の形態というものをベースにしている、と。
江戸時代に歌舞伎が完成して、その後どういう芝居を作っていけばいいかって日本人は悩んでいて、いまだに解明されていないその答えを求めるなら、この中途半端さを秘めたものこそ一番日本人的なんじゃないかと思った、と言う。
そしてさらに、現代の日本で芝居やるんだったら、もう様式なんてない、でも様式のない芝居は美しくないから、なんらかの形で様式を作らなくちゃいけない。日本人にとって一番様式を成り立たせるのは、中途半端でいいかげんでぐちゃぐちゃしてるっていうことになるんだから、混沌がもうちょっと練られて形になりつつあるかなという、その段階の中途半端さが必要だなって思って書いた、と言っている。
もう1本橋本治脚本のミュージカル上演作品。幻の処女作だった『ボクの四谷怪談』が2012年に蜷川幸雄演出によって上演されたのである。
蜷川幸雄が橋本治がこの戯曲を執筆した70年代当時(正確には執筆は76年)にどこかでこの原稿を見たことが記憶の底に残っていてそれが蘇って話を出したのがきっかけだったとパンフレットでの対談で語っている。
また橋本治はこの戯曲を執筆した経緯を『すばる』(2012年10月号)に戯曲全文とともに「付:余は何故原稿書きとなりしか」と題して書いている。それによれば、当時イラストレーターの仕事をしていた橋本治は、ある日徹夜でレコードジャケット数点を描き終え、デザイン事務所に納品をして帰ってベッドに入ると頭の中にメロディが生まれていたそうな。音譜を書いて音楽を記録するという能力はないから、メロディに歌詞を付けてノートに記録するということをするしかなかった。さらにそこから、全体の枠組がはっきりしないと歌だって"歌"になるなりようがない、と思って、ミュージカルにしようと思ったそうである。当然そのミュージカルはブロードウェイのミュージカル。『ラ・マンチャの男』で原則が破られるまで、ブロードウェイミュージカルは二幕構成。そしてブロードウェイミュージカルはミュージカルになりそうもないものをミュージカルにするという特性があると橋本治は思っていたので、すぐに『東海道四谷怪談』をミュージカルにしようと思い付く。橋本治の大学の卒論テーマは四世鶴屋南北。『東海道四谷怪談』の構成はよくわかっていた。ここまで決まったらもうさっさと書き出していたらしい。出来上がったのが『ボクの四谷怪談』。「段取り」だけで作り上げてしまったから、「これを書く作者の必然性」というものはない。ラストもロックミュージカルだから、現実に翻弄されて絶望する青年の叫びで終わる、ということにしたけど、"青年の絶望"とは無縁だから、少し前に見たケン・ラッセルのミュージカル映画『ボーイフレンド』でツィッギーが巨大化したレコードの上で憧れの人と踊っているというシーンを、いいなぁ使えるなぁ、と思ってそのままいただいたといういい加減なことを考えた結果だった、ということである。
書き上げたこの作品がずっとお蔵入りになっていたのも、上演しようにも演劇をしていたわけでもないのでツテがなく、レコードにしようと、友人の名のあるミュージシャン(仲井戸麗市)に相談してあきれられ、イラスト仕事で関わっていた雑誌の編集者に見せたらミュージカルは分からないと言われたので、だったらと二作目のストレートプレイ『義経伝説』を書いて同じ編集者に見せたら、戯曲は売れないと言われ、二作立て続けに書いたことで未練が出てしまったこともあり、「小説家は威張ってるから、小説家になって他人に上演させればいい」と、どうしようもない「段取りだけ人間」として下らなく邪悪なことを考えた結果生まれたのがデビュー作『桃尻娘』で、いつしか「ちゃんと小説を書くのは大変だな」と思ってそっち方向に向かうようになって演劇への衝動や憧れはなくなってしまったということがあったから、だったようである。
この『ボクの四谷怪談』は「騒音歌舞伎=ロックミュージカル」と銘打たれている。音楽は鈴木慶一が担当。
舞台の出演者とは別に販売されたサントラ音源では頭脳警察のパンタも数曲参加している。
パンタのソロ作『PANTAX'S WORLD』が販売されたのが1976年4月。橋本治の頭に音楽が浮かんだのが橋本治の記述によれば1976年の誕生日前後とのことなので3月から4月頃。後に親友となる2人が同じ時期に別の形で音楽を産み出していて、時を経てお蔵入りになっていた作品で"共演"したことは感慨深いものがある。

3へつづく
橋本治が触れた日本のミュージカルを軸に日本のミュージカルの歴史を私なりに整理したいと思う。


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