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球体の動物園③ かばうらら

 今日、かばが来る。かばが来る。かばと会える。
 目が覚めるとすぐにそう呪文のように唱えて、私はカーテンを開けました。眩しい朝の光が幸先良く、と言いたいところですが、外は雨。雨が無言で降っていました。残念に思い、私は一瞬目を閉じましたが、瞼の裏に浮かんだかばの顔は笑っていました。
 かばには、昨日、確認の電話をしました。
「あの、明日ですよね。何か準備して欲しい物はありますか」
「そうですね、湯船いっぱいに水を用意していただけたら嬉しいです」
 かばの珍しくはずんでいる声を聞きながら、私はメモ用紙に『湯船に水』と書きました。
 かばが私の家に来るのは初めてのことなので、私はそわそわし緊張もしていました。もともと私は何かの約束が入ると、その約束の準備に一生懸命になってしまうところがあります。例えばピクニックに行く約束をしたら、お弁当や飲み物だけでなく、誰かが怪我したときのための絆創膏や子供を連れてきた人のための絵本まで、どうしても鞄に詰め込まずにはいられないのです。
 かばはそんな私の性格を知っているからか、電話の向こうでくすくすと笑っていました。いえ、くすくすというより、ぷわぷわという声で笑っていました。ぷとわの間に愛情がこもっていると私は思いました。ぷあいわぷあいわ。
「あ、水ではなく、お酒でも良いです」
「わかりました。では、どちらもご用意します」
 私はホテルのフロント係のようにそう言って、メモに『日本酒』と書き加えて、では明日、と電話を切ったのです。
 今日、かばが来る。
 顔を洗って、テレビをつけて、ニュースを聞きながら挽いたコーヒー豆に湯をゆっくりと注ぎました。キッチンに立ったまま大きなマグカップを両手で持って口をつけると、そわそわが少し落ち着いて、部屋の中を見回す余裕が出てきました。
 きちんと整えた私の狭い部屋は、茶と白の濃淡だけで構成されています。部屋の隅には昨日買った桜の枝。花瓶に挿した桜、そこにだけ、淡いピンク色があります。
 室内にもっと躍動感を感じさせる色を足せば良かったかしら、と私はコーヒーを飲みながら考えました。質素で柔らかな雰囲気だけでなく、若さや可愛いらしさを感じる色、例えば黄色のタペストリーを買って飾るべきだったと少し後悔しました。そして、本棚の上から三段目に飾っていたかばの写真を引き出しの中にしまって、思い直して、また本棚の上に置いたりしました。
 冷蔵庫の中には、肉は苦手だと言うかばのために野菜を沢山買って入れています。部屋中も掃除して、湯船には水。日本酒ももちろん用意しました.。すべてはかばのために、そしてかばの笑顔を見たい自分のためへの準備です。
 私はコーヒーを飲み終えるとすぐに家を出ました。雨はまだ降っていましたが、空のずっと向こうで太陽が顔を出していました。細くておとなしい雨は、太陽に照らされてきらきらと光っています。雨の隙間が見える気がしました。あぁ、なんと気持ちの良い天気でしょう。傘は持たず、待ち合わせ場所の河原に向かいました。
「乾燥した空気が苦手なのです」
 かばはいつもそう言っていたから、雨はかばのために降ってくれたのでしょう。雨天だからといって、残念に思ってはいけないのです。誰に祝福されなくても、空が雨を降らせてくれました。私は、幸運が文字通り空から降っていると思うことにしました。
 河原にいるかばは、遠くからでもかばだと分かりました。巨大な身体に短い手足。バランスが悪そうなのに妙に安定感のあるその姿を、私は足を止めてしばらくの間見つめました。
 かばは身動きもせずに、小さな目で川の水面を見つめています。今にも水の中に入って行きそうだと思った瞬間に、私は慌ててかばの元に走っていきました。
「お久しぶりです」
「あぁ、お久しぶり」
 かばは振り返って、目を細めました。そんな顔をすると鼻の穴が目立って、年齢不詳のとても愛嬌のある顔になります。
 かばの前に立った私は(幾度もそういうことはあったのに)改めてカバの体の大きさに驚いて、うちの湯船に入る今ことができるのかしらと少し心配になりました。
 しばらく見つめ合ったあと、急に恥ずかしいような気分になって、私の家はあちらです、と背後を指さしました。雨は止んで、空には虹がありました。かばと私は、あぁ、とため息のような声を出して空を見つめてから、虹に向かって歩き始めました。虹のぼやけた足元の方に私の家があるのです。
 かばは大きな体に似合わず早足です。私は遅れないように歩幅を広げて、かばの真横に並ぶようにしました。川沿いの道は狭くて車もあまり通らないから、横一列に並んで歩くことができました。肩が触れそうな距離。体温が感じられそうな距離。かばの横は、特別に作られた私の温室のようです。かばの横なら、私の心はすんすんと伸びるでしょう。
 ほんの数週間前まで、この川沿いの土手には菜の花が満開でした。黄色の列が賑やかでした。その菜の花はもうなく、今は桜が咲いています。視線を上げて桜の花を見ると、その向こうに白色の絵の具を混ぜすぎたような青い空が見えます。空は薄目で私たちを見ている気がします。薄目で見たら、私たちはお似合いの恋人同士、でしょうか。
「この川の水は澄んでいますね。きれいだ」
 横にいるかばが歩きながらつぶやいて、
「はるのうららの」
 川を見つめながら歌うように言いました。
「隅田川」
 私が続けると、かばは何度も頷きました。
「よく檻の前に来ていた人が、なぜか、僕を見ながらこの歌を歌っていたのです。檻の前で毎回、小さな声で歌っていました。そのたびに、僕は耳をすまして歌詞を聴きとりました。はるのうららのって出だしで、あなたを思い出していました」
 あぁ、私の名前は春乃です。はるのうらら。春乃うらら。思い出していた、というかばの口から出た言葉を噛み締めると、両頬がきゅっと痛くなりました。
「僕がむかし住んでいたところでは、花が咲くのを見たことはありません。でもなぜか懐かしさを感じたのです。目を閉じて歌を聴くと、桜の花びらが舞う川を僕はゆっくりと泳いでいるのです。目と鼻と耳を水面から出して、周囲の景色を眺めているのです。灰色の檻の中で、あの歌を聴くとき、僕は、はるのうららを感じていました」
 私は水面から半分だけ顔を出したかばを想像して、水中から顔を出したときのように、ぷはぁと気持ちの良く息を吐いてみました。
「檻から出たときに、一番最初に隅田川というところはどんなところかと確かめに行きました」
「どうでした? 隅田川は」
 かばは道端に生えている小さな白い花に近づき、匂いを嗅いでから、その花をぱくりと口に入れました。
「檻の中で想像していたより、ジャングルでした。沢山の高い建物が遠くに見えて、クラクションや人の笑い声、沢山の音に囲まれていました。それでも、やはり僕にとっては、はるのうららでした」
「うらら」
「うららかに生きていきたいと願いました」
 そう言って笑ったかばの口から、さっき食べた白い花びらがこぼれ落ちます。手品師の手から花が咲き花びらが落ちるように、かばの口から白いひらひらが舞い落ちました。笑みがひらひらと口から出ていきました。
「でもね、僕がはるのうららを感じながら泳いでいた川は、最終的には隅田川じゃなかったのです」
「え? 間違っていたのですか?」
「隅田川から入ったのです。でも、川って名前が変わるのですね。隅田川から月島川まで泳いでいました。そして、月島川もうららでした」
 かばは楽しそうにそう言いました。
 私は水の中をたゆたうかばを思い描きました。流れるものは、押されたり引き戻されたり何度も方向を変えます。進路変更しながらも、ゆったりと流れるかばを想像しました。半分だけ顔を出して周囲を伺いながら流れるかば。かばの顔は、幸せそうにも寂しそうにも見えます。
「はるのうららの隅田川」
 かばは歩きながら歌い始めました。
 私は、かばの低く響く声を聴きながら、かばに手をのばしました。ぬるぬると赤黒く濡れたようなかばの肌に指先が触れて、かばをつかもうとした瞬間、私の指先はつるりと滑って落ちました。あぁ、まただ。私はいつになったら、かばをつかむことができるのでしょうか。このつかみどころのない肌に私が爪を立てれば良いのでしょうか。
 かばは穏やかです。私はこのとぼけたような穏やかな顔しか知りません。でも、かばの内部にある凶暴といわれる部分がカッと熱を持ってしまうと、かばはまた私から遠く離れた場所に行ってしまうのです。
「もう檻には入りたくないですね。穏やかに生きていきたいと思います」
 かばは何度もそう言いました。私もそれを望んでいます。
 穏やかに。この川沿いの水彩画のような景色の隅っこに、私とかばが小さく描かれて、誰も見てくれなくても、どこかの壁にぽつんと飾られていたら良いなと思うのです。
 いつの間にか虹は消えて、私たちは私の家に着きました。ドアを開けると、カバは遠慮がちに部屋に入りました。そして遠慮なく部屋を見渡しました。
「狭いところですが、おくつろぎください」
 私が言うと、かばは風呂場へ向かいました。
 私が水を溜めていた浴槽に、かばはどっこらしょというようなゆっくりとした動作で入りました。褐色の巨体が沈み込むと、浴槽から水がどばどばと溢れ出ました。
 かばの肌を覆っていた血の汗と呼ばれる粘液が、浴槽の水で洗い流されていきます。血でも汗でもないと分かっていても、私はその赤黒い粘液がかばの肌から消えていくのを見ると、なぜかほっとしました。
 私は浴室から部屋の隅に行き、花瓶に挿した桜の枝から花びらをもぎ取って浴室に持っていきました。そして浴槽に沈むかばの上から花びらを散らしました。
 薄いピンク色のそれは、ひらひらと舞い、かばの褐色の肌にぴたりと張り付いたり、浴槽の水面に浮かんだりしました。
「はるのうらら」
 かばは気持ち良さそうにそう言って目を閉じました。
 私は服を脱ぎ、かばの横の小さな空間に身を沈めました。春の水風呂は冷たく、ぷつぷつと鳥肌が立ったから、かばの体を包み込むように両手を広げて抱きつきました。
 私はかばの全身を撫でます。かばのぬるぬるとした粘液が私の肌に移ります。私は、顔も身体も、かばに押し当てました。かばのぬるぬると匂いが、私の全身の毛穴から私のなかに浸透します。ゆっくりと深く。
「ふぁああ」
 かばが脱力したような声を出しながら大きな口を開けると、茶色い大きな歯が見えました。
 このまま食べられても良いなぁと私は思って、かばの口の中に頭を突っ込みました。


次章☟つづきもお読みいただけたら嬉しいです。


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