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花と帰る

バイト先で、先週もらったお祝いの花を処分するように言われた。

あまりに大きくて、解体しないと捨てられない。一本一本花を抜きながら、ゴミ袋に入れていく。
それまで「お花」という塊だと思っていたものが、それぞれに顔を持っていたことを知る。

お前こんなところにいたのか、もうそろそろ寿命なのかなあ。
そんなこと思いながらひとつひとつ覗いていると、まだもう少し元気のありそうな花もいくつかいた。

「これ、もらっていってもいいですか?」
思わず、そう言った。

自分で、言って驚いた。
これまでの私には、家で花を生けるなんて文化はまるでなかった。

今同じ部屋でルームシェアをしている子は、部屋に植物を置く。花瓶に挿してあったり、吊るしてドライフラワーにしていたり。
そんな彼女は、私が簡単に見えなくなってしまうような余白をきちんと残して暮らしているように見えた。

まだ一緒に暮らし始める前、彼女の部屋に遊びに行ったとき、花を生けるなんてちゃんとしててすごいなぁと言った。
すると彼女は、母に言われたのだと。生きている植物も置いた方がいいと言われて、置くようにしていると言っていた。
「ちゃんと」とか「すごい」とか、私がそんな風に片付けてしまいそうになった習慣が彼女の芯を作っていたのかもしれないと思うと、そんな言葉を選んだ自分が急に恥ずかしくなったのを覚えている。

はじめて一緒にスーパーに行って買った花たちが、花瓶の透明なガラス越しに自然と私の暮らしにも浸透していたのだと知った。

バイトを終えて、帰るころ。どうやって持って帰るか、考えていなかったことに気づく。
そのまま持つにしては帰り道が長く感じられて、濡らしたティッシュを何枚かつけてコンビニのビニール袋で巻いて、持ち手にした。
1つだけ葉っぱのついたやつが少し長すぎるかなとも思ったけれど、まあそれもいいかとそのまま一緒に。

そうして夜の街を花を持って歩いていると、暗闇の中で白い花たちはぼうっと明るく浮かんでいるようだった。
花屋さんで買う花束はきちんとパッケージがされていて、「花束」という塊だと認識される。ビニール袋で括られただけの彼らは、ひとつひとつが宙に浮いていて、意識を持っているようだった。

できるだけ丁寧に上に向けて持っていると、少し背の高い葉っぱは私の顔の前にあって、彼らは私が行く道の前にいつもいた。
そうして、花越しに見る帰り道を行く。

目の前を通り過ぎる車も、エスカレーターで前に立つサラリーマンも、電車の向かいの席に座るおじさんも、コインランドリーで洗濯を待つおばさんも。
見える景色に花を添えて歩くと表情が変わったように見えて、私もにこにこしてしまう。端から見たら怪しいかなと時々冷静を装いながら、花と一緒に歩くのもなかなかいいもんだと思った。

家について、シンクの下から瓶を取り出す。
花の写真を送ったあの子には、吊ってドライフラワーにしてもいいかもしれないと言われたけれど、今日だけはこの花と一緒にいたかった。

アンバランスな長さの花を瓶に挿す。
ひとつだけ長くて首をもたげたように垂れたけれど、それがまたちょうどよかった。
今日はあの子のいない1人の家だけど、夜ごはんがおいしい。

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