自分勝手な怒りとセルフケア

葛藤や逡巡ばかりで生きているだけで引き裂かれそうだった内面を持っていた時は自分を書き散らしたかった。今の私は書かなくてよくなり、リストと共に日常を送っている。こなさなければならない日常のタスクから将来達成したいこと、買いたいものなどを書き出しながら仕事に家事に遊びに日々忙しくしている。


リストは時間やお金を効率的に使うためにある。大人になっちまったなと感じる。通勤の隙間時間に資格の勉強に励んだり、退勤後にジムに行って運動して、帰宅後湯船に浸かり、日を跨ぐ前に布団に入る。趣味はシーシャとサウナとアニメ鑑賞で、まったくもって普通の社会人である。今の興味は新しく始めた営業の仕事と資格の勉強に注がれていて、どうやったら年収を高くすることができるかばかり考えている。


生活保護の時のことを考えたら、夢のような生活をしていると思う。派遣だが定職についていて、副業もしている。コンビニでペットボトルを躊躇いなしに買えるし、外食もできる。心も生活も安定していて、本当に楽だ。この暮らしを手放したいとは全く思わないし、むしろもっといい暮らしがしたくて日々努力しているのだが、自分がしたかった生活をしていると徹底的に自分が「消費者」であることに、そしてそのことに何の引っかかりも覚えていないことに怖くなる。私にとって「消費者」とは、食べものやクリエイティブな制作物、情報の全てに対して一次生産者になれず、帰宅後にTikTokとYouTubeを流し見しているような、なりたくなかった自分のことを指す。「消費者」は自分の暮らしに閉じこもり、それで満足しているような自分を指す。


きっと私は、このままだとライターを目指していた自分のことを忘れてしまう。


社会に対しての眼差しが変わった。自分に変えられないものはあったとしても、それに立ち向かっていく礎の一つになりたいと思っていたし、変えられないものを変えたいと思う情熱があった。今はそれよりも自分の生活を良くすることに関心がある。そのことに罪悪感を覚えなくなってきている。社会に目が向いていないわけではないが、自分のメンタルの調子を崩すほどに思い入れることはなくなった。それは日本のことでも、世界情勢のことでもそうだ。


あの頃の私は、いろんなものに怒っていた。怒りのエネルギーを当たり散らしていた。腐っている政治に怒り、障害者を排除する社会に怒り、当たり前が手に入らない自分の病気に対して怒り、親が毒だと言って怒り、気に入らないものがとにかくたくさんあった。それはそういうものだよね、と言って飲み込む大人全てが気に食わなかった。なぜ世間が分別をもっているのか、理解できなかった。今は生活に支配され、お金で手に入るもので自分を慰労し、さらに欲しいものをカウントしながら社会は私には変えられない、変えられるのは自分だけだなどと言って誤魔化している。


自分のエネルギーを変えられないものに費やしたくない。これは普通の日々を享受できる人間の特権でしかあり得ず、自己責任論を内包する危うい心理だとわかっている。だが、過去の私の社会と距離を取れず、社会の問題がそのまま自分の問題だった頃のメンタルからクールに自分の生活を保てるようになったことを考えると、心理的には成長だと思っている。自分のことを最優先にできるようになったことはセルフケアができるようになったことと同義であり、自分で美味しいご飯を作り、湯船に浸かり、寝る前は恋人や友人と話し、動画鑑賞や読書をしてから就寝する穏やかな日々を本当に私は愛している。これは私が手に入れた人生の財産だと言っても過言ではなく、誰の問題も解決しなくていい、小さな自分勝手な王国の主であることは私の誇りや支えになっている。


どうすれば、王国の主でありながら、他者に心を痛めながら、社会を築き上げる一員として、行動ができるのか、わからない。本音を言えば、行動なんてしたくない。お金をどうやって稼ぐかだけ考えていたい。大人としてするべきだと思っているだけで、義務感しかない。だが、少しだけ残っている過去の自分が自分を蔑んでいる。


セルフケア、セルフラブといった柔らかい言葉は実は全然優しくなくて、社会の理不尽のせいで切迫した環境にいる人間にとっては全く何の役にも立たない。必要なものは福祉であり、制度であり、自助努力で解決できる範囲を超えていたら資本主義社会で想像されるような自分へのご褒美的なセルフケアなんて焼け石に水どころか、できないこともある。入浴剤を入れてゆっくり入浴した後にボディークリームで保湿、なんて私は昔できなかった。


この自分の力で築き上げた王国を、さらに発展させたい自分の城を、生活を向上させる設備投資に喜びを感じる素直な気持ちを、肯定したい気持ちは確かにある。だが、今はそういう状態だが、未来永劫このままでいいとは思えない。でも、自分が自分をより好きになるために行動する社会運動なんて、醜いものだとも思う。自分の手によって変えられると思っている情熱を持てる分野ではないと難しいだろう。


当事者意識をはっきり保ったまま、自分のためかつ他人のために行動できることを探そうと思うと、思いつくものは確かにある。ちょっとやりたいのは、精神障害者のためのキャリア相談。私がなんとかなったんだからあなたも大丈夫と言いたいわけでは全くない。障害者雇用、一般雇用に関わらず、自分の病気を隠すことなくキャリアの相談ができる場が私は欲しかった。キャリア相談に行こうとした時に精神の病気がある人はお控えくださいと書いてあったこともある。怒りに震えたのを覚えている。


ここまで書いてきて、今の自分が恵まれているから怒ることがなくなって、問題意識を感じられる場面が少なくなったから、過去の自分に責められるような気がするのだとわかった。私がさっきやりたいと書いたものは、今の怒りを元にしたものだ。別に人間の形が変わったわけではない。昔の怒れる私が高尚だったわけではなく、マイノリティ性が共感に結びついて様々なものに当事者意識を持てただけだったのだろう。ある意味究極に自分勝手な人間だ。


自分の築き上げた世界の中に閉じこもる消費者であることにNOと言いつつ、過去の私のように共感や憐憫によって動くのではなく、ただ自分が必要だと思ったものに対して進める人間でありたいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?