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埼玉県行田市で実際にあった忍城の戦いについて!

こんばんは!花粉症で悩まされている飯能高校探究部のしおさんです!!
でも、小さいときより花粉症ひどくないんですよねー。耐性ができたのでしょうか…?

今回は前々から言っていた「忍城の戦い」について書いていきます!

忍城の戦いとは?

忍城の戦い(おしじょうのたたかい)は、1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」が北条氏を討伐するため、豊臣秀吉の家臣であった「石田三成」らに命じ、北条氏の支城「忍城」を水攻めにした戦いです。

なんと、かの有名な豊臣秀吉と、北条氏、石田三成が関わっています!!

忍城の戦いの背景

1590年・・・「小田原の役」豊臣秀吉が天下統一を果たすため、北条氏の拠点である小田原に出陣。

豊臣軍は北条氏の配下にあった城を攻略していきました。忍城も北条氏の配下にあった城でした。

豊臣秀吉は、忍城を攻略するために石田三成を向かわせます。

…とすごくざっくり説明するとこんな感じです!

開戦

1590年・・・石田三成が攻撃開始

城代を務めていた成田泰季が開戦前に病死してしまい、代わりに息子の「成田長親」が総大将となり対抗。

石田三成は、人数で成田軍を遥かに上回り、正攻法で攻略しようとしました。しかし、沼地に足を取られたりなど自然の要素でなかなか陥落できませんでした。

ここで豊臣秀吉が忍城の「利根川と荒川に囲まれた扇状地」という立地に注目し、「水攻め」で攻略をします。

水攻めとは、「周囲の川の進路を変えるために城の周囲に堤防を築き、近くを流れる「足守川」(あしもりがわ)を決壊させ、その水を城側に引き入れて城を水没させる」攻略方法の一つです。

かつての織田信長も、中国地方攻略による天下統一を狙って、1582年、羽柴秀吉(のちの「豊臣秀吉」)に命じて、難攻不落と言われた「備中高松城」を水攻めで攻略しました。

石田三成は水攻めを開始します。

石田三成は、約1週間という短期間で、「石田堤」とも呼ばれる総延長28kmにわたる大きな堤防を築き、利根川の水を引き入れました。

しかし忍城は周りの土地に比べて、標高が高かったため利根川の水だけでは水没まではいきません。そこで、水量を増やすために荒川をせき止めます。

城は沈み始めたものの、肝心な本丸(城の中心部分)が沈まず、城が水に浮いているように見え、そこから「浮き城」と言われるようになりました。

1590年、6月に大雨が降ります。忍城は水没寸前でした。

しかし、堤が壊れ流れた濁流は城内ではなく、石田軍の方に流れ、約270人が亡くなりました。

その後、水がはけた忍城の周りは泥沼化。攻撃は難しいと判断され、水攻めは失敗に終わります。

1590年7月、豊臣秀吉は、なかなか忍城に手が出せずにいた石田軍へ浅野長政に支援を命じました。

そこに、上杉景勝と前田利家が軍に加わり、忍城に総攻撃。しかし、忍城を陥落させることは出来ませんでした。

1590年7月14日・・・忍城開城

このことから、忍城は「城攻めの天才・豊臣秀吉も落とせなかった唯一の城」として、歴史に刻まれることとなりました。

_____と、今回の記事は、刀剣ワールドさんのサイトを簡単にまとめることしか出来ませんでした…。

本当は図書館にでも行って忍城のことについて調べようとしましたが、なかなか難しく、このような形になってしまいました。

2年になったのでどこかの記事で「探究部」らしい記事を書けるように努力します。

最後に思ったことを述べたいと思います。忍城粘り強すぎ!!!!!!
以上!!!


〜顧問のつぶやき〜

忍城は映画にもなった「のぼうの城」の舞台として一躍有名になりましたね。

忍城のあった忍藩は飯能戦争にも関わりがあります。

https://www.bugin-eri.co.jp/research/research02/file/r180531b.pdf

忍城、忍藩関連をさらにしおさんには調べてもらいたいです。

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