「普通じゃない」が「普通」になる日

「普通」ってなんだろうって考えたことはある?
お父さんとお母さんのもとに健康で生まれて。
6歳になる春に小学校に行く。
平日毎日通って、決まったクラスメイトと
決まった時間に決まった場所で同じ授業を受ける。
決まった時間に給食を食べて、黙って掃除をして、「先生皆さんさようなら」と言って
通学路をまっすぐ帰っていく。
これを6年間繰り返したら、次は中学校に
行く。中学受験をする人もいるかも。
同じように決まったクラスメイトと決まった時間に決まった場所で同じ授業を受ける。
部活をやる人はやって、学年があがって
受験をして、高校に入る。仕事に就く人もいる。
高校でも部活をやって、就職したり、受験をして
大学・短大・専門学校に通う。卒業して就職をする。
どこかで出会った素敵な人と結婚をして、
子どもができて、家を建て、車を買う。
働きながら家族を養ったり、子どもを育てたり。
いっぱい働いて偉くなって、
定年になったら退職金をたくさんもらって、国からもらえる年金で何不自由なく100歳まで生きる。
これを読んで、「え、これって普通なの?」
って思った人はどのぐらいいるかな。
「これができていない人は普通じゃないの?」って
思った人もいるかもしれない。
これを「普通」と思っている人がいる。
こうだったらいいな、っていう憧れを持つ人もいる。

僕は「普通」って道筋なんだと思う。
ただ、あくまで「多くの人たちが目指そうとする道筋」に過ぎないんだとも思う。縛られる必要は全くないんだ。道筋はひとつじゃないんだからね。
でも、周りの人たちは、みんなをなんとか
「普通」にもっていこうとしてくるし、「普通」のほうがいいでしょ、と思わせようとしてくるんだ。
「普通」こそが幸せ、って信じて疑わない
人たちもたくさんいるからね。
みんなと一緒、っていうのが何よりも安心するから。
実際「普通」が幸せっていう人もたくさんいる。
人と違う道を進むのって、不安なんだよ。
「普通」から外れるのって不安なんだよ。


だからといって、「普通」じゃない道を選んだ人たちを否定する理由にはまったくならないんだけどね。
僕は知っている。
「普通」じゃない人生を送っている人たちを。
「普通」の道をいかないで幸せになっている人たちを。それも1人や2人じゃない。たくさん。
その人が特別だからできたことでもないし、
その人だからできたことでもある。
「普通」にしなさい、っていう周りの人たちからの
力と戦ってきた人もいれば、
「僕は僕の道を行くよ」って気にせず突き進んでいった人もいる。
少し前だったら、めちゃくちゃいろんな人から怒られていたかもしれないけど、
今は前ほど怒られなくなったか感じがする。
「普通」って、変わっていくんだって気付いたんだ。

少し前まであり得ない、常識はずれって
思ってたことが、今それほどあり得なくないってなっていないことに。
ゆっくりすぎて気付かないかもしれない。
けど確実に、変化してきているんだ。
戦わなくても、強くなくても周りが思う
「普通」に乗らなくても生きていかれるように。
僕は「普通」が本当の「普通」になるのを信じてる。
周りが「普通じゃない」いってることが、
そのうち「普通」になるように。
いくつもの選択肢が目に見えるようになって、どの選択をしても受け止めてくれる。
失敗してもまたチャレンジできる。
そんなことが周りの人も自分も思う
「普通」であるように。

さらみ


普通についてあれこれ・・・

「普通」って、一人ひとりが育ってきたお家とか、友達とか、関わる人とか色々なことを経験してきて、
その人の「普通」になるんじゃないかなって思う。
だから一人一人少しずつ「普通」の定義が違うのはしょうがないことなんだろうな。
 でも、その普通の違いに気が付いていない人がたまにいる。「なんでそうゆう風に考えるの?
おかしくない?」とか、、、。そう言われると自分を全否定されているような気持ちになって悲しくなる。
私は私でいいはずなのにね。また逆に自分で自分のことを「私は普通じゃなくっなっちゃった、みんなと違う。もうダメかも」よ自分の普通で自分を責めちゃうこともある。そう思っている時、正直すごく辛い。
 なので私は、「普通」って一人一人違うから、否定したり、全部相手の普通に合わせてしまうんじゃなくて「ほうほう、ねるほど、そう思っていたのね」「そうゆう意見もあるんだな」「自分の普通って自分で作り上げた幻想なのかしら?」程度に受け止めたりしています。調子がいい時しかできないけど。
                                      きょろ

   
   命に比べりゃ「常識」なんて

「普通」と「常識」
「常識」とは、イギリスの「コモンセンス」を訳し損ねた言葉らしい。「コモンセンス」は、隣人に対する思いやりや、感動する心、繊細な感性、人を褒める時に使われるような単語だった。その訳である「常識」は、現在の社会のルール、暗黙の了解、というような窮屈な意味に縮小されてしまった。「常識」なんて気にしなくたっていい。それぞれでいい。本当に温めて大事にしないといけないのはコモンセンスのほうだと思う。
                                     なおと

 普通の生活

普通の生活と言いつつも、
 普通って本当に誰のことなのかな?とか思ったり
健康なら普通なの?毎日働いていたら普通なの?
毎日学校に行ってたら普通?毎日家事してたら…
病気やけがをしたら普通じゃない?
仕事や勉強を家でしていたら普通じゃない?
 みんなそれなりにできることをやれれば
それでいいんじゃないのかな?

しおあじ



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