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私のおじいちゃん① 森敏治さん

森さんと出会ったのは、今から7年前のこと。
小柄でお茶目な森さんは「ハンセン病のことを正しく知ってほしい」と私に家族のこと、療養所での生活のこと、社会復帰後のことなどを包み隠さずよく話してくれました。
高校生だった私は、森さんの人柄に惹かれ、勇気を出して、当時企画していた写真展の被写体をお願いしました。森さんは快く、引き受けてくれて、写真展が終わった後も、お茶に行ったり、ご自宅に伺ったり、一緒にハンセン病療養所に行ったりと交流続けていました。
森さんは私にとって、血は繋がっていないけど「おじいちゃん」という言葉がピッタリ合うそんな大切な存在です。
そんな森さんが、2020年の2月頃、失語症を発症しました。前のように話すことが難しくなっていることを知り、森さんが以前のように話せないのなら、私が森さんのことを伝えていけるんじゃないか、伝えていきたいと考え、森さんの友人やボランティア先の人、ご家族など森さんに縁のある人たちを訪ね始めました。


この記事では、実弟である森修さんからの聞き取りや、『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)から、森さんの生い立ちやご家族のこと、ハンセン病を発症してから長島愛生園に来てからのことを中心にお伝えします。



ハンセン病を発病して

敏治:俺は7人兄弟の4番目で、双子の兄弟として生まれたんや。姉が二人と兄、それから双子の弟と妹、弟や。生まれは京都やけど、終戦直後に親父の郷里の滋賀県長浜市に引っ越した。親は洗張り業をしていたから、学校から帰ると俺らも親の仕事を手伝っとった。
小学5年生の時に家の五右衛門風呂のお湯を、薪をくべて沸かしていた時のことや。後で俺の左手の皮が剥けていたことに親父が気づいたんや。火傷をしとってんな。全然気づかんかった。「痛いのがわからんのか?」って親父に聞かれたんやけど、全然痛くなかったし、なんで熱いという感覚がないのか、自分でもわからんかった。いろんな病院で診てもらったけど、原因はわからんと言われた。
中学3年生の時に火傷の後を診た保健室の先生から、日本赤十字病院で診てもらうようにと言われて、診察を受けたら、次は京都大学付属病院へ行くようにと紹介状をもらった。後でわかったんやけど、日赤の医師から親父は俺がハンセン病にかかっていることは聞いてたらしい。だけど、俺には言わず、黙っとった。1957年11月に京都大学病院へ診察に行って、そこで「らい」(注1)と診断されたんや。でも、俺は当時、「らい」という病気を知らんかったから、病名聞いてもようわからんかった。それに、医者は「この病気は治る」と言ってくれたからホッとしたくらいや。診断されたその日から京都大学に2週間入院したんやけど、入院費用は保険対象外で高くつくから、結局親父から療養所に行ってくれへんかと言われて療養所へ行くことになった。

注1)「らい」という言葉は長い歴史の中で偏見や差別を伴って使われてきた経緯があり、平成8年(1996年)「らい予防法」が廃止されたとき、「らい菌」を発見したノルウェーのハンセン医師の名前をとって「ハンセン病」と呼ぶように改められました。
『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

兄がハンセン病を発病して思うこと

修さん(弟):敏治さんは昔から愉快な子やった。敏治さんと話すと楽しかったし、自分のことを後ろめたく考えることもなかったし。
小学校5年生のときにハンセン病症状の神経障害で、低温火傷みたいなのをするんやけど、指が曲がって、伸ばそうとすると亀裂が入って、白い腱が見えててね。ほんで「それ、痛くないんか?」って聞いたら「痛くない」って言うとったのはよう覚えてる。
中1、中2あたりで京大の病院に行ったりして、確定診断もらってた。あの当時はね、そういう病気の子がいたら、必ず行政に連絡を取るように学校に通達が出てた。人権とかそんなこと関係なしで。多分、校長先生が「うちにもそういう人がいるで」と連絡してたんちゃうかな。
私ら同じ部屋で、雑魚寝で寝てたんですよ、普通に。今でも不思議に思うのが、コロナみたいに感染力があるんやったら、みんな罹ってるだろうがって。家族だれも罹ってへん、敏治さんだけ罹った。後から調べたら、感染力が弱いことがわかったんやけど。
あの頃は政策上で男の子がそんなもんに罹ったら戦争に行けへんくなるよっていう話があって、戦士が一人ずつ減ってくがなって話で、隔離しろってことやったんやと思うで。それがずっと2001年まで続いたんやと思うわ。

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弟の修さん

息子を想い、家族を想う

可哀想なのは亡くなったお袋なんや。お袋はね、敏治君が長島に行った後に、宗教に没頭してしまいよったわ。新興宗教みたいなところに。自分の心の慰めをそこで求めてたんやと思うわ。両親とも、私ら年下の兄弟に、兄貴はこういう病気なんやっていう情報も伝えてくれなかったし、今どこに居るんやってことも知らなんだし、あえて情報を流さんようにしたみたいや。だから僕は、「なんでおらへんな、どこ行ってもうたん?」と思ってた。「どっか違うとこで生活してんねん」っていう話は聞いたことがある。私が小学校1~2年の話やから、僕は敏治さんが療養所に行っているんじゃなくて就職の前倒しみたいに思って捉えてた。
それで、私も後から聞いた話やけど、たまに「森敏治」っていう名前じゃなしに違う名前で、手紙が何度か私の実家の方へ送られて来ていたらしい。

「この病気になったら一生この島から出られない」

敏治:親父は国立ハンセン病療養所長島愛生園まで付き添ってくれた。偽名が必要やと言われて、親父が勝手に「森川和雄」とつけたんや。でもなんで偽名をつけなあかんのか、当時、俺はそこまで考えがおよばんかったなあ。その日のうちに親父は帰ってしもた。もう中学生やったし、俺の地域のほとんどが中学を卒業したら高校には行かんで都会に就職してたから、別に寂しいとは思わんかったよ。それから回春寮(入所時、禁止物品の取り上げや消毒が行われた収容所)にまず入れられた。陰気で暗い場所やった。ここでようやく「大変なところに来てしもた、こんなところにおられへん。早く治して出なあかんわ」と気づいた。その頃の自分の顔は、赤く腫れあがっていて熱も38度くらいあって、身体がだるかったわ。治療はプロミンという薬の注射を5cc毎日打つことから始まったんやけど、病状はなかなか治らんで、身体がだるくつらい日々やった。手の平にも結節といって黄色で中に水が溜まってコリコリしたものができた。皮膚の感覚はあったけど、汗が出ない。鼻はつまってつらいし、ホンマに苦しい日々やった。入室している人から「この病気になったら一生この島から出られない」って言われた。当時は「らい予防法」というのがあったんやけど、そんなこと俺は知らなかったから、「この人、ヘンなこと言うなあ。なんでそんなこと言うんやろ」と思ってた。中学3年生の途中に療養所に入ってしまって、中学校を卒業できなかったから、1958年の3月から中学3年生をやり直すために、高校生ぐらいまでの子どもが生活する少年舎に移った。俺と同じ部屋におったのは、7~8人くらいで、同級生もいたけど一緒に遊んだ覚えはないなあ。俺はいつもここから出ることばかり考えていたわ。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

邑久高等学校新良田教室に入学して

敏治:長島愛生園は、3年前に定時制の邑久高等学校新良田教室が開校してたから、受験して入学した。本当は早く、この島から出たいと思ってたけど、まだ病状が回復せえへんし、治療にはまだまだ時間がかかりそうやし、それやったら高校へ行こうと思ったんや。高校は1ヶ月夏休みがあったから、いつも故郷に帰ってた。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

佐藤:邑久高等学校新良田教室にいた頃、森さんは色黒で、キューバ出身の野球選手ロベルト・バルボンに似ていたそう。そのためか、私が療養所に行って、「森さん」と言っても伝わらないけど、「バルボン」というと通じる。森さんと同じ新良田教室5期生の方にお話しを伺うと、「朗らかな子だった」「おとなしい子だった」「よく笑う子だった」という印象をもっているとお話ししてくれた。

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邑久高等学校新良田教室

敏治:実家に帰ると、母親が「あんたにだけ特別にご飯作ったるよ」と言ってくれたけど、俺は悪いと思って遠慮して、「みんなと一緒でいいよ」って断ってた。ハンセン病の症状は、高校を卒業するあたりからよくなってきた。薬の副作用もようやく少なくなってきて、時々出てた高熱もなくなってきた。治療を始めて5年間はほんま大変やった。病気が騒ぐんか、副作用なんかわからんけど、40度の熱が一週間くらい続くことが何回もあったんや。そんでそれから、治療方法が変わってプロミンからDDS(ダプソン)という薬を使うようになった。この薬は飲み薬で1日2錠と決められてて、それからは順調に回復に向かった。俺は、薬で治ったってよりも、飲酒で治ったと思ってるけどな(笑)

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

つづく…








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