佐藤芙優子/Fuko Sato

高校生のときに、ハンセン病回復者のおじいちゃんと出会い、ハンセン病問題に関心を持つよう…

佐藤芙優子/Fuko Sato

高校生のときに、ハンセン病回復者のおじいちゃんと出会い、ハンセン病問題に関心を持つようになりました。当事者のおじいちゃん、おばあちゃんからお話をお聞きし、繋ぐ活動をしています。

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18歳で感染性心内膜炎になった私が「ハンセン病」を記録する理由

 私が「ハンセン病」を記録する理由について語るためには、大学1年生に経験した闘病体験について書く必要があると思い、今まで公にしてこなかった闘病体験を経て私が何を考えたのか、まとめることにしました。  私は開発途上国で活躍できる助産師を志しており、大学1年生の夏休みにアフリカのガーナ共和国に渡り、現地のクリニックで6週間の医療ボランティアをしていました。現地では、限られた医療環境の中で懸命に人々の命と向き合う医療従事者や各国から集まった医療学生に囲まれ、本当に充実した日々を送

    • 私のおじいちゃん③ 森敏治さん

      この記事では、森さんが週に2回通っていた「障がい者が街で共に生きるみんなの麦の家」の近藤英子さんや友人の村田和也さんの証言、『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)から、森さんが新聞配達の仕事を辞めてからの生活を中心にお伝えします。 佐藤:森さんが週に2回通っていた「障がい者が街で共に生きるみんなの麦の家」の近藤英子さんにお話を伺った。 麦の家の校長先生近藤:定年退職と同時にうちに

      • 私のおじいちゃん② 森敏治さん

        この記事では、ハンセン病支援センター職員の加藤めぐみさん、友人の芝池さん、山城さん、弟の修さんの証言や、『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)から、森さんが社会復帰した頃から国賠訴訟で勝訴判決が出るまでの活動を中心にお伝えします。 社会に出るという覚悟佐藤:療養所ではなく、社会に出て生活したいと願い、社会復帰する人は多くはありませんでしたが、邑久高等学校新良田教室(療養所にある高校

        • 私のおじいちゃん① 森敏治さん

          森さんと出会ったのは、今から7年前のこと。 小柄でお茶目な森さんは「ハンセン病のことを正しく知ってほしい」と私に家族のこと、療養所での生活のこと、社会復帰後のことなどを包み隠さずよく話してくれました。 高校生だった私は、森さんの人柄に惹かれ、勇気を出して、当時企画していた写真展の被写体をお願いしました。森さんは快く、引き受けてくれて、写真展が終わった後も、お茶に行ったり、ご自宅に伺ったり、一緒にハンセン病療養所に行ったりと交流続けていました。 森さんは私にとって、血は繋がって

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        18歳で感染性心内膜炎になった私が「ハンセン病」を記録する理由

          「ハンセン病問題を知る」スタディツアーから、私が感じたこと・考えたこと

          この数ヶ月間、任意団体JIWA-JIWAと共同で取り組んできた「ハンセン病を知るスタディツアー」を無事に終えることができた。 2023年8月26日〜27日の1泊2日で、岡山県にある国立ハンセン病療養所長島愛生園と邑久光明園に、参加者21名と訪れた。 ツアーを終えた今、私が「ハンセン病問題を知る」スタディツアーをやってみて、学んだことや、考えたことを久しぶりに言葉に紡いでみようと思う。 さざなみハウスでランチ 「ハンセン病療養所に行く」と聞くと、どこかハードルを高く感じてし

          「ハンセン病問題を知る」スタディツアーから、私が感じたこと・考えたこと

          知った上で本当の理解をするということが大切 田村保男さん

          国が行った隔離政策によって、長い年月を岡山県の長島愛生園で過ごさなければいけなかった人たちがいる。田村保男さんもそのひとりだ。 昭和6年5月11日に山口県で生まれ、小学校4年生でハンセン病を発病した。病気になったことで、岡山の離島に隔離され、今日まで70年という月日を長島愛生園で送っている田村さんが、どういう人生を送ってきたのか、知りたくなり、お話を伺った。 幼少期での思い出田村:若い頃は、戦争中やから勉強、全然してないんよ。竹やりでやっこらやっこらばっかりで。学徒動員でね

          知った上で本当の理解をするということが大切 田村保男さん

          ハンセン病になったことで人の痛みと許すことの大事さがわかるようになった。   福山敏雄さん

          「もう一度人生をやり直したい」 私が最も心に残っている福山さんの言葉です。インタビューの終盤に耳にしたこの言葉を何度も心の中で繰り返しながら、その重みについて自分自身に問い続けました。何が福山さんにそう言わせるのか、今を生きる私たちに何を伝えようとしているのか、その思いをまとめました。 ハンセン病を発病して福山:生まれは山口で兄と姉、弟の6人家族、幼少期は親父が炭鉱夫として働いていたから、家族で社宅に住んでいた記憶があるんよ。昭和28年に親父が先にハンセン病を発病して、長

          ハンセン病になったことで人の痛みと許すことの大事さがわかるようになった。   福山敏雄さん

          ハンセン病回復者との出会いは、私を支えてくれているのではなく、守ってくれている。 中村大蔵さん

           記念すべき第1回目は、初めて私にハンセン病回復者の方を紹介してくれた特別養護老人ホーム園田苑の理事長である中村大蔵さんです。中村さんに出会わなかったら、私がハンセン病問題にこれほどまでに関心を持つことはなかったでしょう。ハンセン病問題への入り口を私に与えてくださった大切な恩人です。中村さんがなぜ100回以上も療養所に通い続けているのか、その思いをまとめました。 私:初めて中村さんにハンセン病療養所に連れて行ってもらったときに、中村さんから田端明さん(ハンセン病回復者)の「

          ハンセン病回復者との出会いは、私を支えてくれているのではなく、守ってくれている。 中村大蔵さん