類は友を呼ぶ?②

 苦手な人がいたとする。はっきりと、嫌いな人であっても良い。どう頑張っても上手くいかない、好きになれない人に相対した時、その欠点や嫌悪する部分とは、正に自分の中にあるものと同じであったりするという。
『んな馬鹿な…』私にはそれが本心だ。
 嫌な相手の嫌な部分が自分の欠点だなど、有り得ない。
 何故なら、そんなところは先ず絶対真似しようとは思わないし、そうならないように気を付けようとするのが、私の取る手段だからである。
 しかし世間では、私のこの反面教師的態度に対する反応を、一般論だとは認識してくれない。誰もが再々、前述の『んな馬鹿な…』という論理を説教的に話したがるのである。
 あまりにも色んな人に同じことを言われると、私は自分が間違っているのだと不安になって行く。是が否でも自分を正しいと信じられなくなるのは、自分が指導的立場に立つことなど殆ど無かったのに対し、人に指導されながら生きて来た時間が圧倒的に長いせいかも知れなかった。
 それ故、〝類は友を呼ぶ〟という言葉が、友人間の笑いや共感に繋がるのに対して、苦手な人達の集う環境に放り込まれるような事態が続く度、私は別の意味で〝類が友を呼んで〟、こんな目茶苦茶なことになるのかと悩むのであった。
 苦手な人の欠点は、そのまま自分の欠点である。
 その言葉を振り返る度、私は苦しむ。
『私はこんな人達と〝同じ穴の貉〟なのだろうか』と…。
 実際問題、私が私の苦手とする人達と「似ている」とか「類は友を呼ぶ…だね」というような、類似的共感を誰かから与えられたことは無い。『んな馬鹿な…』的論理を提示されるのは、あくまで何も知らず、何の根拠もない場所からであるのだが、人間関係の苦労が重なる度、その理論は私を苦しめる。
「お前もその人達と同じだよ」
 そう誰かに言われている気がするのである。
『絶対あんな風にはならない!』
 私は決意を繰り返し、苦手な人の嫌いな部分を嫌悪しながら、自らを戒める。
 よくよく考えれば、嫌悪する相手が〝友〟に成り得る可能性など殆ど無いのであるが、〝類は友〟…〝似た者同士が集う〟という意味では、何かある度に私自身の振り返りとなって、追い駆けて来ることになりそうで、ただひたすらに恐ろしい。


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