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運命

〝運命〟という、重厚でインパクトの強い単語が、ふと浮かぶ瞬間がある。人であったり物であったり、若しくは何かのきっかけであったりするそれは、未来を明るく照らし、一瞬の希望さえ抱かせる。大きく揺れ動き、心を激しく波打たせる時もあれば、その場では気付かなくても静かに訴えかけ、克明な印象の足跡を残すこともある。
〝運命〟…。それに出合うことは確かに幾度かあり、確実に人生の歯車を動かした。
 しかしそれが、必ずしも私の歴史に希望を与えたわけではない。『やっと出会えた!』と歓喜させた直後に、容赦なく見放す。私を惑わせ、光を投げ掛けた直後に…。そんなことが稀ではなかった。たとえそれが、私の中に確信を与えたものであったとしても…。
 私は自分の直感が信用出来なくなっていった。
 自分の目は節穴。感覚への激しい刺激は幻で、単に全て見誤っていただけなのかと…。吐き気を伴うような悲しみに、心は貫かれて疲弊し、嫌悪感に悪夢を見た思いがする。何を信じれば良いのか…。私は徐々に自分を見失っていった。

 
 彼と出会ったのは、私にとって人生で三度目の〝飲み会〟だった。
人見知りな上、唯でさえ異性と関わりの薄い生活環境の中で暮らしている私は、同世代の友達が積極的に参加しているそれを、長年敬遠していた。付き合い下手で協調性に欠ける自分にとって不向きな場所であるのは自覚していたし、そもそも人と集まるのは苦手だ。
 一生出掛けることのない場所だと思いながら生きてきたある日、何年かぶりに持ちかけられたその誘いに、何故か乗ってみる気になったのは、単なる気紛れ以外の何ものでもなかったように思う。奇しくもその頃、私は数十年生きて来て初めて、〝仲間〟と活動することを『楽しい』と感じていたのだった。
 人生も半ばに差し掛かり、そして当時を過ぎた今、後にも先にも〝仲間〟というものに恵まれた最高の時期であったと感じている。調子に乗っていた私は、〝社会勉強〟と銘打って、〝飲み会〟とやらに参加することにした。裏を返せば男女の出会いを目的とした場であることは明らかであったが、ある程度年を重ねていたことと、フットワークの軽い周囲の口車に乗せられた感もあり、気負いも期待も持たず、取り敢えずその場を楽しんでやろうという思いだけが、長年避けていた場所へと私を誘った。  
 初めて参加したそれは、散々だった。
 道に迷った末、遅れて到着した私達を待っていたその場所で、既に男性陣は出来上がっており、そこは酔っぱらいの悪態と下ネタの巣窟と化していた。二次会と称して移動したスナック(人生初体験!)では、駄菓子のつまみとカラオケに大金を持って行かれ、げんなり。そのままお開きとなった。
「あれはないわ!」同行していた友人達は口を揃えた。
「こんなんで懲りてたらあかんで!他で頑張るから!」
 何を頑張るのか解らないまま日々は過ぎ、次の〝飲み会〟がセッティングされたのは約二ヶ月後のことだった。
 
 今回は随分大人数が集まるらしい。同性だけでも「友達の友達…そのまた友達…」といった、見ず知らずが集うという。飲み会という場の相場を知らないだけに、どのくらいの人数がベストなのかは判らないが、取り敢えず面白がっておくことにした。
 当日、〝見ず知らず…〟の同性を含めた女性陣は、店が入っているビルの中の広場で待ち合わせ、自己紹介もそこそこに、ぞろぞろとエレベーターに乗り込んだ。
辿り着いた店先には客がたむろし、『お相手の男性メンバーかな?』と思われる集団の姿も見受けられる。中に、ふと目を引く一人の青年がいた。一瞬目が合うが、互いに知らない者同士。それぞれ連れとの会話に戻る。挨拶さえ交わされなかった。
 席に通されると、長テーブルに一人間隔でずらりと男性陣が座っていた。圧倒され、私は人見知り病を再発させる。隣も向かいも男であるどころか、当たり前だが全て知らない人間だ。空いている席に腰を下ろしたものの、あろうことか斜め向かいに座った女子も、見ず知らずの〝友達の友達…そのまた友達〟であった。
 逃げ場が無い。
 私は自分の気配を消すことに集中し始めた。取り敢えず呑み、出されたものを食べ続ける。右隣の彼は、背の高いなかなかの好青年で、油断すれば好きになりそうだった。
 異性を異性と意識し始めると、私は何を話せば良いのか判らなくなる。生活の大部分は女性社会で、男と関わるといえば身内程度。他では、知り合った他人の男というものに再々幻滅させられてきたこともあり、私にとって男とは、〝わからない〟〝理解し難い〟存在になっていた。
向かいに座っていたのは、先程店先で目を引いた男であった。
『同じグループの人だったのか…』と心で思うが、隣の〝友達の友達…そのまた友達〟である彼女と饒舌に喋り続けている。会話に入る余地は無さそうだ。
 正直、最初の印象と違った。それは隣の彼女にしても同様である。見れば、場全体が似たような雰囲気で盛り上がっている。頼りであった友人達も、普段の姿とは別人のようであった。
 皆、場慣れしている…。そう感じた瞬間から、私は自分の場違い感を持て余し始めた。飲み食いしているだけでは限界がある。周りが騒がし過ぎて、殻に籠るにも集中力を欠いた。
 右隣の彼は、時折気を遣って話題を振ってくれる。見映えだけでなく良い人に感じられて、胸がときめいた反面、気を遣わせている痛みをひしひしと感じた。騒音で声が聴き取り辛いことも、自己嫌悪を募らせる。私は自分がこの場所に居ることから、逃げ出したくなっていった。
 無意識に酒が進む。
 暫くして、小さく折り畳んだ紙が入った、籠が回されてきた。席替えをするのだという。促されるままにひとつ選び、幹事らしき男に指示されるまま、それぞれがガヤガヤと移動し始める。私は通路側の端っこから、内側のセンターへ移動を余儀なくされた。
『出入りがしにくい!』
 飲み過ぎてそろそろトイレが近くなっていた私には、大層不都合な席次となった。右隣の優しい彼は、反対側の端っこに行ってしまった。店先の男は場所を変えて再び私の斜め前へ…。しかし相手を変えても饒舌さは健在で、私の入る余地は無かった。
 酒が回ると愉しくなってくる。酒豪である祖父の血を秘かに受け継いだらしい私は、当時限界知らずであった。
新たに隣り合わせた彼は、小柄で彫りの深い顔立ちをしている。独特な雰囲気は、見た目だけの問題ではない。どうすればそうなるのか、上の歯茎が斑で、異様に黒かった。彼は男だが、私には全く異性の匂いを感じさせない人であった。
 席替えで好青年から遠ざかったことと、良い感じに酒が回ってきたことで緊張から解放されつつあった私には、向かいの男宛ら、饒舌を演じる余裕が出て来ていた。先程と打って変わり、頭も舌もよく回る。自分でも人が変わったようだと客観視出来るほどであった。〝右隣の彼〟はどう思っただろう。私が彼なら大分気分が悪かったに違いないが、今は奥の席で寡黙な風情でありながら、そこそこ楽しそうにしている様子を見て、少し自分が情けなくなった。彼にはきっと、私など眼中に無い。席替えしてホッとしているに違いないと…。
 ナルシスト的な歯茎の黒い男と、身の無い世間話で笑い転げながら、度々トイレに立っているうちに、会はお開きとなった。幹事がそれぞれ連絡先を交換せよと呼び掛ける。私は再びトイレに立った。今後ナルシストと交流するつもりは元より、他の誰かと繋がる可能性があるとも思えなかった。戻ってきた頃には全てが終わっている…。私の計算通り、戻った時には誰もが帰り支度を始めていた。
 饒舌男は相変わらず話題に事欠かないようだ。輪の中心に立つことにも慣れているらしい。私も帰り支度を始めた。
「あ、せや。アドレス交換してないやんなぁ?赤外線で送って!」
 饒舌男が言った。
 私は耳を疑った。何故アドレスを…?交換?
 どうやら参加女子全員の連絡先を確保したらしいのだが、トイレに行っていた私の分だけは未だだったらしい。話に入る隙も無く、会話さえままならない状態であったというのに、何故連絡先が必要なのかは解らなかったが、変に渋って意識していると思われるのも嫌なので、言われるままに携帯を取り出し、連絡先を交換した。
 目を引いただけあり、嫌な気はしなかった。しかも、男から連絡先を聞かれることなど早々ない。
『軽薄でなければ良かったのに…』
 軽薄でなければ、心惹かれたかも知れなかった。

 
「次の飲み会、決まったよ!」
 麻佑子が言った。
「相手は竹中が連れて来るから。今度は4対4やし、楽やで」
 竹中…。竹中は、竹中政春だ。
 竹中は夏の飲み会で、参加していた女子十人全員と、連絡先を交換していた。あの後、私が社交辞令的に送ったメールに、一度愛想のない返信があったきり、私達に繋がりはなかった。
 麻佑子は竹中と継続的に連絡を取り合っていたらしい。それは史佳も同じである。
 前回の飲み会の後、二人は口を揃えた。
「ないわ~」
 飲み会の後、女たちは相手の男たちを批評する。もしかしたら男性の方も、似た様な会話をしているのかも知れないが、〝ない〟と堂々言い切ってしまう二人を、私はすごいと思った。
 麻佑子は冷静沈着で、普段殆んど笑わない。落ち着いていると言えば聞こえは良いが、時々怖いと思うことがあるのは、完璧主義で隙が無いせいか…。しかしいつも、口調は至っておっとりである。飲み会では笑顔も自然で、会話も軽く、私の知っている彼女とは別人だった。
 史佳は見た目がモデルだ。芸能活動していないのが不思議なくらいスタイルが良く、顔も派手である。但し性格はまるで男。竹を割ったような姉御肌。私より七つも年下だというのに、輪の中では常に中心を走り、皆を引っ張っていた。
 麻佑子も史佳も、自分に自信があるのだろう。しかし私に、他人を評価する力量はない。実際二人のように〝ない〟とも思っていなかった。
 最初、右隣にいた中嶋将太は好青年だった。竹中政春も軽薄でさえなければ人目を引く。〝ない〟などとはとても思えない。むしろ〝ある〟と言いたかった。
 現に二人とも、竹中とは未だに連絡を取り合っているではないか。それなのに何故、〝ない〟などと言えるのだろう。
「次の機会に繋げるためやん!」
 史佳が言った。
「一人でも多くと繋がって、もっと色んな人と出逢わな!」
 大したもんだ。現状に満足せずに、更に上を目指す…。素晴らしい心がけではあるが、上には上がいるということを、何処まで追求しようと思うのだろう。
「こないだすごい楽しそうやったのに、良いな…と思う人おらんかったん?」
 二人は口を揃える。
「見た目は竹中が良いな…と思ったよ。でもちょっと軽いな」
 史佳は更に追加する。
「背ぇ、もうちょっとあったら良かったんやけどな…。多分私と変わらんのちゃうか?」
 史佳は170センチ近くある。156センチしかない私や、私より若干小さい麻佑子にとって適正身長であっても、彼女にしてみれば〝小さい〟のであった。
「次の幹事は私と竹中やから」
 麻佑子が言った。
「え?竹中さんも来るの?」
「そうそう!」
 麻佑子と史佳が口を揃える。
「竹中の知り合いを紹介してもらうねん」
 史佳が付け加えた。
 そんな手筈になっているとは知らなかった。私はこういうことにまるで疎い。しかし相手に知り合いがいるということが嬉しかった。知らない人間と話をしなければならないのは、物凄いストレスだ。何を話して良いのかわからないし、とにかく気を遣う。やはりこういう場を好きになるのは難しい。それが本音であった。
 
 私は都会が苦手だ。繁華街と呼ばれる場所に一人で、しかも夜、出かけて行くのは疲れる。夜は家でゆっくりするもの…。朝から出掛けて昼間遊んで、それで夜の時間帯になってしまうのは良くても、本来なら家に帰って来る時間帯に外へ出掛けて行くというのが、どうにも好きになれない。年齢だけはしっかり大人になっているのだから、夜遊びのひとつやふたつしても良いものを、生活リズムは子どものままであった。
 慣れない駅で迷う。自慢じゃないが、とんでもない方向音痴だ。人波に揉まれ、案内表示を見ながら進むが、改札口はひとつではないし、どちらへ向かえば良いのかわからなくなる。携帯電話という便利な文明の利器があって、本当に良かったと思った。
 話題の場所は大抵混んでいる。流行と人混みは仲良しだから、極力避けたく、私がこの場所を訪れたのは、オープンしてからようやく人の足が落ち着いたらしい、二年目のこの日が初めてであった。
 新しく出来たショッピングビルのエスカレーターを上がる。
 ゲートで知っている顔を見た気がした。その人達と待ち合わせたわけではないので、気付かないフリをする。別人だったら恥ずかしい。一回しか会ったことがないのだから、相手がこちらを覚えていない可能性もあった。
 約束の時間より早く着いたが、此処から何処へ行けば良いのか…。
 史佳には既にメールで着いたことを知らせていたが、返事がまだ来ない。
新しいビルであっても、長い時間開いているわけではないらしい。ファッションゾーンは閑散としている。
 待ち合わせ場所に具体的な名前はなかった。
「取り敢えずビル…」
 麻佑子とこの日初めて会う彼女の友達は、仕事を終えてから来る予定であった。
 4人が4人とも別の交通機関を利用している為、入館する扉もまちまちだ。
「着いたら連絡…」
 携帯電話って本当に便利。
 背ぇ高のっぽが走って来る。私が此処に居ると何故わかったのか知らないが、史佳が紙袋を下げた反対の手を振っていた。
「ごめん、ごめん。ちょっと買い物してた」
 見た目はモデルなのに、私以上に田舎者の史佳は、たまに都会に出るとあらゆる誘惑に負けるらしい。珍しくスカートなんぞを穿いている。しかし何故かセンスに欠けるのは、美しい人とは何をどんな風にしても美しいせいか…。どうもこだわる部分が違うようだ。私なら絶対しないような色の組み合わせをしている。
 麻佑子とその友達を探す。麻佑子と彼女の友達は仕事を終えてから来る予定なので、若干遅れているらしい。史佳と二人、ビルの中をうろつく。こんなに空いてるものなのか…。出来たばかりでごった返している印象だったが、それは休日の日中に限ったことなのかも知れなかった。
 
 店は飲食店街の一角にある小さな居酒屋だった。前回大人数で、何処もかしこも大騒ぎだったのが嘘のようだ。掘り炬燵の座敷に案内されると、既に男性四人が正面に並んで座っていた。座った途端、隣で史佳が耳打ちする。
《全員チェックや!》
 何のことかと思ったら、竹中以外の三人が三人とも、それぞれ色柄が違うチェックのシャツを着ていた。
《チェックってお洒落なんか?》
《さぁ…知らんけど…。》
 気付いてしまうと滑稽に思える。恐らく揃えたわけではないのだろう。揃えていてもそれはそれで疑問が湧くが…。
 竹中は向かって右端に座っていた。他が大柄なので、随分小さく見える…と思ったら、大きいのは体だけでなく、年齢の方もだという。彼が集めたのは〝職場の先輩〟らしかった。
「この座り方、ちょっと恥ずかしいわ…。」
 軽薄であるはずの竹中が呟く。恥ずかしい意味がわからない。前回、男女交互で座らされた時の方が、私はずーっと恥ずかしかった。向かいに誰が座っていても、隣に気心の知れた友達が居るのは落ち着く。
「面倒臭いし、取り敢えずこのままで良いやん!」
 史佳が言った。
 竹を割ったようなサバサバ系なのに、実は万年床で自室に籠り、〝土曜サスペンス〟なんかをビデオに撮り溜めて観ているような彼女は、見掛けに因らず人見知りで内向的でさえあった。
 幹事同士が盛り上がる。
 一風変わった〝先輩〟は、麻佑子の清楚な友達に、すっかり心を奪われたようであった。傍目に付くほどアピールしている彼を見ていると、悪い気がしない。互いの心の内を探り合うような駆け引きは面倒だし、私は苦手だ。残念なのは、彼自身、パッとしないところだ。お世辞にも魅力的だとは言えない。客観的だから好感が持てるが、アプローチされている知香ちゃんは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 酒が進めばテンションが上がる。場の雰囲気にも自然と溶け込めた。前回、大人数で気後れしたことが嘘のようで、下らない話に終始しているだけなのに、楽しくって仕方がない。
「ちょっとピッチ、早いんちゃうか?」
 珍しく竹中が、私に口を利いた。
「早いかなぁ…?喋ってたら喉渇くねん!」
 笑って軽く受け流す。
 麻佑子や史佳とは饒舌に話すのに、竹中は私に愛想が無い。話題が豊富でないことを見抜かれているのか、単に面白味のない女だと悟っているのか、当人である私は不愉快だった。
 私は、女としての自分に自信が無い。他の子達との態度に差を付けられていることを感じると、益々自信が無くなる。特別扱いしてもらおうなどと思わなくても、同じように接してくれれば良いものを、素っ気ない態度を取られることで、彼に対する不信感に突き動かされる。私は面倒臭い女なのかも知れなかった。
 斜め前に座っている、縦にも横にも大きい眼鏡の〝先輩〟が頼んだ、巨大なサワーが到着した。
「それ…全部飲めるん?」
 あまりの大きさに誰もが唖然としている。
「さぁ…飲めると思うけど…半分飲むか?」
 空いたグラスにサワーが注がれる。麻佑子も史佳も酒が弱い。知香ちゃんは専らビールであった。
 そろそろトイレが近くなる。行き始めたら立ったり座ったりの常習だ。出入りしやすい下手の席次で助かった。
 トイレに立つ度、天井が回る。立っていられないほどではないが、飲むのを止められない。何せ喉が渇くのだ。酔い潰れたことが無い為、私は自分の限界を知らない。二日酔いの経験もないので、吐いたり翌朝起きられないということも、未だ嘗て無かった。どうもアルコールに強い身体に出来ているらしい。そんなことを言ったら、以前友達に「手術の時、麻酔効けへんタイプやな」と言われたのを思い出した。
 何度目かのトイレから戻ると、私の席の隣に竹中が座っていた。
「ちょっと席替えしてん。やっぱ、あの座り方緊張するから…。」
 竹中が元々座っていた場所に、冴えない谷田さんが移動し、その隣に知香ちゃんが座らされていた。
 竹中は反対隣りの麻佑子と話し続けている。向かい同士だったのが隣同士になり、会話は絶えない。この二人は気が合うように見える。竹中がリアクションして身体を動かす度、彼の腕が私の腕に当たった。
 私は巨大な津森さんと、殆どのみ比べのような状態になって行った。グラスのサワーを空にし、ドリンクメニューを見つめる私。津森さんのジョッキには、先程のサワーがまだ残っていた。
 史佳はインテリジェンスな向かいの男と他愛の無い話に終始している。人見知りでもそうは見せない。それが史佳と私との大きな違いだ。インテリジェンスな成尾さんは、その名をカタカナにしたいようなナルシストにも見えたが、単に根暗なだけとも思えた。こういう場では、大人しくいているタイプなのかも知れない。
 ドリンクメニューを睨んでいる私を上半身だけ跨いで、竹中が史佳と成尾さんの話に割って入った。話は史佳が中指に着けている指輪に転じる。細いがカットが複雑で、その姿以上に光り輝く金の指輪だ。
史佳が指輪を外し、竹中に手渡す。彼はそれを自分の薬指に填めた。
「結構、手、細いんよね……ほら」
 芸能人の婚約披露記者会見のように、指輪を填めた手の甲を見せる。浅黒いが節も無く、女のようにか細い、綺麗な手をしていた。
『働かない手だな…』
 心の中だけで呟いた。
 中学生の頃、母に言われたことを思い出す。
 私は体の割に大きな手をしていた。どちらかといえば指も長い。ピアノの鍵盤は一オクターブ以上届くし、部活で齧ったクラリネットを操るのにも不便はない。長い指は得に思えた。
 見た目にまるで自信のない私の大きな手を見て、母は言った。
「一生働く手ぇやな」
 一生働く?
 褒められたのか貶されたのか判らない。しかしこの時、私はそれを褒め言葉だと受け止めた。まだ働いたことのない学生だった私は、何をするにしても、一生仕事をしていくと言われたことに、自立した女性の姿を思い浮かべたのだ。いくつになっても、バリバリと元気に仕事をしている女性…。それは憧れであり、とてもキラキラと、輝くような未来を連想させた。
 働く大人になって思う。一生働く手を持った女性とは、必ずしもそんな素敵なものではない。中にはそういう人もいるだろうが、一生働いて行かねばならない…という暗示が義務感となった時、それは〝一生独りで生きて行く〟という現実を伴う場合がある。〝一生働く〟とは、一生誰の庇護の下にも入らない…と言い換えることも出来るのだ。
『結婚してもバリバリ仕事をしていたい!』
 中学生の私はそんな風に思ったりもした。バリバリ働く女性像とは、ブームになった月9ドラマのような世界でしか見たことがなかった。
バブルの崩壊以降、日本社会の雇用問題は、そんな輝かしい場所からは遠い処に存在している。社会人と呼ばれるようになった今でも、現実でそんな世界を垣間見たことはない。もしかしたら何処かに存在しているのかも知れないが、少なくとも私の住む世界では目にしない。バブル全盛期すら蚊帳の外で、学生時代を脱してみれば、就職氷河期真っ只中。将来に展望すら持てないまま、宛がわれた目先の仕事を覚え、その狭い世界で細々と〝今〟を生きることに終始して来た私には、かつて希望を持たせた母の言葉が、今は呪いのようなものに思えた。
〝働かない手〟をした竹中は、軽薄であっても国家公務員の職に就いている。チャラチャラしていても、チャラチャラの延長では就けない仕事だ。
 竹中が指輪を外したので、間の私はメニューを持ったまま背もたれに反り返った。指輪は私の前を通って史佳に返される。指輪は再び、持ち主の中指に納まった。
 史佳の手は小さい。よく〝白魚のような手〟などと表現されるそれとは、彼女の手のようなもののことを言うのだろう。初めて見た時、その白く華奢な様に、愕然とした。手の平を合わせてみると、私の手よりも間接ひとつ分も小さかったのだ。
 彼女もまた〝働かない手〟だが、女なら彼女のような手をしている方が、幸せになれるのかも知れない。性格は男のようだが、見たるはまるでバービー人形だ。こういう場所でも、周囲への配慮を怠らず、食べ物を取り分けたり、率先して注文をとったりしている気の利きようを見て、彼女の望みとは裏腹に、未だに独身なのが不思議でならない。唯一、原因があるとしたら、理想が高すぎるのだろう。現に、〝飲み会〟というものに参加する度、誰かからは必ず連絡が来る。食事に誘われたり、夜景スポットや天体観測に誘われたりしている。それに一度は応じるが、次には口癖のように「ない」と言って切ってしまう。
「車持ってなかってん」
「星とか興味ないねん、私」
「年…もうちょっと近い方が良い。十個も上やと、将来が心配や」
 彼女は自分を知っているのだろう。特に重視しているのはやはり身長で、「175は欲しい」というのは、妥協点にならないようであった。
「席、替わろうか?」
 指輪の一件以降、話が盛り上がっている左右の狭間で、私は史佳に囁く。
「いい、いい、大丈夫!」
「じゃあ、ちょっとまたトイレ行って来るわ」
 あっけらかんと手を振る彼女に断わり、そっと席を立った。

 勘とか第六感というようなものが、ものの見事に当たらない。
脳が願望に忠実なだけなのか…。それとも、相手となる物や人が魅力的過ぎて心奪われているだけなのかも知れない。直感を信じることは、それを運命だと錯覚させているだけのような気がしている。
 
 かつて運命を感じて、身を置こうとした場所があった。酷く煌びやかで眩しく、激しく華々しくて美しい世界だ。
 そこには、今まで自分のずっと探していた場所だと信じ込むだけの力があった。私は夢を現実にするために全てを委ねた。
 しかしそれは叶わない夢だった。私と同じようにその美しい世界に魅了されて、運命を感じた人が大勢いた。たった一握りがそれを手にし、その他の多くはこぼれ落ちた。
 運命は運命ではなかった。
 運命を感じたのも、私だけではなかった。
 時折、未だに夢をみる。そして、夢の狭間で現実に気付く。私がそこへ行くために、許される年齢など、とうに過ぎているということに…。
失った夢を、未だ運命だと信じている自分が、この身体の何処かに今も存在しているのか、単なる過去のトラウマなのか、本人である私にすら判らない。
 失った夢を掴もうとする夢を、私はいつまで見るのだろう…。そのうち見なくなるのだろうか。今の私にはわからないままだ。
 
 会計を済ませて居酒屋を出た後、私は「トイレ行ってから帰るわ」と、他の参加者に手を振って別れた。
 泥酔経験が無いせいで、自分の限界がわからない。どんなに飲んでも倒れることはなく、笑いや涙が止まらなくなったこともなければ、嘔吐に至った経験すらなかった。立った時に天井が回ったり、眠くなったりすることはあっても、ぶっ倒れるほどではない。アルコールの間に烏龍茶を挟めば、その後はいくらでも飲めるし、上がったテンションは上がったままだ。依って、私にとって酒の席は娯楽のようなものであった。
 飲食店が居並ぶフロアの一角にトイレがあった。集団行動が苦手な身としては、顔見知りが誰もいなくなった後に、静かに帰りたかった。どの道、一人だけ乗る電車が違うのだ。ばらける時に一人になるより、ばらけることを想定して一人になった方が、何故だか気が楽だった。
 便座を椅子代わりに一息つくと、脳天がメリーゴーランドのようにぐるぐる回るのを感じた。意識ははっきりしているが、これも酔っぱらいの一種かも知れない…。
〝シラフ〟という言葉について考えてみる。平静であっても、酒が入った時点で強かろうと弱かろうと、それは〝シラフ〟とは言わないのかも知れなかった。
 必要以上にゆっくりトイレを出たのに、店の前にはさっきの集団がまだ屯していた。店の前を通らずに、ビルの外へ出る方法を探すが、すぐに諦めた。私は極度の方向音痴なのだ。そんなことをしている間に、家に着きそうだった。
「まだ帰ってなかったんかいなー!」
 酔っぱらい気分で笑ってみせる。
「待ってたんやんかー!どこ行ったんかと思ったわー!」
 谷田さんが乗じた。トイレに行くと言ったのを聞いていなかったのだろう。勿論その後帰ると言ったことも…。
 結局ぞろぞろと外へ出る。薄暗かった夕闇が、すっかり夜の繁華街へと変貌を遂げている。何故か皆名残惜しそうで、誰もその場を離れようとしなかった。
 何処からか「二次会にカラオケ…」と言う趣旨の声が上がったが、それぞれの終電を理由に、話は流れた。
「じゃあ、またの機会に…!」
 恋する〝先輩〟は、誰よりも元気だった。
『またの機会なんてあるんかな…?』
 私は時々、本音と建前の見境が付かなくなる。建前を本音とはき違えて、期待し過ぎたり、裏切られた気持ちになったりすることがままあった。
 谷田さんは知香ちゃんと、連絡先を交換しようとして四苦八苦していた。何故か携帯の赤外線送受信が上手くいかない。大笑いしながら、火照った顔に当たる夜風に微睡む。初秋の風はひんやりとして、酔いの喉を潤すレモン水のようだ。
 あまりに上手くいかないので、連絡先は、幹事が全員に全員の分をメール送信する…ということで決着した。谷田さんは最後まで悔しそうで、知香ちゃんはひたすら「なんでやろ?」と繰り返した。
 私以外の三人は私鉄に乗る。男性陣も別の私鉄に乗るはずだが、私が向かう地下鉄の改札と、駅の方向が同じだと言うので、同行することになった。
「うわっ!一人だけ取り巻き多くてゴメンな!」
 普段言わないような冗談を言っている。それに気付いて自嘲した。
 他の三人が手を振って背を向けると、男四人について私も歩き始めた。方向音痴なので、素直について行くのが正確だろう。はっちゃける谷田さんに、大柄な津森さんがじゃれつく。成尾さんは相変わらずナルオの冷静さだ。女から見て、男はいつまでも子どもだと言われる所以を、目の当たりにしている気分であった。
 半分笑いながら歩き始める。スッと、隣に竹中が並んだ。男性の輪から外れているのが不思議だった。私の隣を歩く行為も不思議だ。彼は私に歩調を合わせるように並んで歩いた。
 この人は輪の中に入るのが苦手なのだろうか。
 皆自分より〝先輩〟だから、気を遣っているのだろうか。
 私の横に彼が居るということに、何か理由を見付けなければ修まらないほど、それは奇妙な感覚だった。
 何か話さなければならない。
 軽薄なのに寡黙な彼に、手持ち無沙汰を感じて焦る。
「麻佑子のことが好きなん?」
 酒が入っているのを悪用するかのように投げ掛ける。
「……別に…好きちゃうよ。」
 顔色一つ変えない。笑ったり、茶化したりもしない。私のつまらない質問に対して疑問を返すこともせず、竹中は黙々と歩いた。
 離れてくれた方が楽だった。隣に居ることの違和感がいつまで経っても拭えない。気を悪くしたならどいてくれれば良いのに、彼はずっと私の隣で歩き続けた。
 私は何を聞きたかったのだろう。気まずかった。
 
 駅の改札まではすぐだった。
「それじゃ…一人だけで送ってもらってありがとうございました!」
 向かい合った四人に笑って見せる。
「誰かの連絡先知りたいなら、ちゃんと言っとくよ!誰かいてる?」
〝幹事が全員分をメール送信〟という言葉が、俄かに信じがたいことは誰もが理解していた。望んだわけではないが、一人だけ送らせたような形になったことに、何かで報いなければ気持ちが悪かった。
「知香ちゃんの連絡先、お願い!」
 谷田さんが両手を合わせて拝む。
「私も知らんから、本人に伝えてもらうように言っとくわ!」
 知香ちゃんとは初対面だったので嘘はついていなかったが、谷田さんに期待してもらうのは危険だった。良い人だが、知香ちゃんの心が彼に向いていないのは、誰の目にも明らかだ。
「他の人は大丈夫?」
 私は余計なお世話をしている。何処かでそんな風に戒める別の自分がいるのに、止められない。
「岬ちゃんの連絡先が欲しい」
 一瞬、誰が言ったのか判らなかった。自分の名前が出たことに気付くのにも、時間が掛かった。思わず声に詰まる。大柄な津森さんがにこにことこちらを見下ろしていた。
「…っと……竹中さんが知ってるから、教えてもらって!」
 眼鏡を掛けた津森さんの表情が、はっきりと判らない。にこにこと笑っているように見えて、実は笑っていないのかも知れなかった。
「じゃ…またね!」
 手を振って背を向ける。男性陣は手を振り、地下鉄よりも先にあるらしい、自らの私鉄乗り場の方へ歩いて行くように見えた。

 
 運命に導かれている。未だそんな風に錯覚する。
私の街からは遠い彼の住む街で、働くかも知れない機会があった。普通ならチャンスがあってもスルーしただろう。だって遠いのだ。なのに面接を受ける気になったのは、それが他では出来ない仕事だったからである。
 最初、その求人を見つけた時、それは既に応募締切の期日だった。書類の郵送が〝当日消印有効〟であれば、急げば何とかなったのかも知れないが、備考欄に書かれていたのは〝直接持参〟の文字…。どう足掻いても間に合わない。縁が無かったのだと諦めた翌月、再び同じ求人を目にした。毎日通勤することを思えば気の遠くなりそうな距離だったが、仕事内容だけでなく、条件面でも妥協するには惜しかった。
 彼に会えるかも知れない。
 普通に考えたらそんな期待をする方がおかしい。想像以上に大きな街だ。かつて彼がその街に住んでいると聞いただけで、街の何処に住んでいるかまで、私は把握していない。そんじょ其処らで出会えると思う方が間違いなのは、小さな子どもでも解りそうなものだった。それに、あれから既に四年が経とうとしている。彼が住む街だからといって、今もそこに居るとは限らない。当時は実家暮らしだったはずだから、実家から出て独り暮らしをしている可能性がある。それに、もういい年だ。結婚して街を出ているかも知れないし、何処かへ引っ越した可能性だってあった。
 会えると考える方がおかしい…。理解しているつもりなのに、気持ちが昂るのは何故だろう。私は本当におかしいのかも知れなかった。
 
 男性陣と別れて地下鉄に乗り込んだ後、私はほろ酔いで目を回しながらも、座席で眠れなかった。電車に乗って座れた場合、到着駅まで眠るのは常だ。年中睡眠不足なのは、夜更かしが過ぎるせいか、何でもやり始めると必要以上に時間がかかる悪癖のせいなのか、その両方かも知れなかった。
 座って眠れないのでメールを打つ。家に着いた頃に送信すれば、帰ってから打ったことになるだろうと読んでいた。
 なかなか電車が空かない。終点である降車駅までは二十分足らずの筈だ。ひと駅ごとに人が減るのは、都会から田舎へと徐々に移動していることの証なのに、混み合い具合は変わらなかった。
何かが違っていた。疑問を感じた瞬間、自分が逆方向の電車に乗っていることに気付く。家からどんどん遠ざかろうとしていた。
 こんなミスは初めてだ。眠っていて乗り越したことは一、二度あったが、逆走しているのに気付かないなんて!私は次の駅に着くと、慌てて電車を飛び降りた。
〔今日はありがとうございました。帰りの電車、気付いたら反対に乗ってたー((笑))〕
 正規の列車に乗り換えて、何故か黙っていられず、こんなメールを送っていた。家に着いてから送るはずだったメールは削除する。終点に辿り着くまでに一度だけ返信があった。
〔やっぱり飲み過ぎてたんちゃうんか?気を付けて!〕
 竹中のメールは愛想もクソも無い。もっと言えば、愛も優しさも無かった。自分には何の魅力もないのだということを見せつけられている気になる。麻佑子や史佳とは続いているというやり取りも、本人達は「愛想が無い」と言っていたが、続いている時点で私とは確実に状況が違う筈だった。
 女として興味を持たれなくても良いが、友達にすらなれないのかと思うと、何故だか切なかった。二人のように「次に繋げるため」
とは思わなかったが、異性の友達の一人として、この先関わって行くことも出来ないのだろうか…。
 自分の居場所の殆どは女性社会で、私には男友達と呼べる人がいない。学生時代、アルバイトをしていた写真屋で、当時よく呑みにつれて行ってくれた社員だった人が、私の携帯に入っている身内以外で唯一の異性だ。彼が転職した後、長らく疎遠だったが、ある時、仕事を辞めて地元に戻り、在宅で仕事をするようになったと、急に連絡が来た。友人と三人で再会した彼は、ガリガリだった十五年前に比べ、倍ほども太っていた。
 十五年ぶりの再会から、頻繁メールが入るようになり、私も友人も面白がって連絡を取り合っていたのだが、友人が結婚したのをきっかけに、彼女の携帯には彼からの連絡が来なくなった。代わりに私の携帯が頻繁に鳴り出す。彼が友人の夫に気を遣っているのであろうことは明らかだった。
 江梨子は学生の頃から大人びていて、男受けの良いタイプだった。彼女はあらゆる人から「べっぴん」と評されているらしかったが、そんな様子にまるで気付かなかったのは、彼女がかなりお笑い芸人的だったせいだ。私にとって、ひたすら面白い人間であった彼女に、私が女性的な魅力を感じたことは皆無で、「江梨子ちゃんべっぴんやからな~」と言う男たちの胸の内を耳にして初めて、その容姿の美しさをまざまざと眺めてみるほど、私には頓着が無かった。
 ある時、社員の彼に頼まれて、江梨子が写真のモデルをしたと聞いた。普段の仕事とは別に、割の良いアルバイト代も出たと言う。出来上がった写真はポストカードに作り替えられ、何故か私の元にも回って来た。春先の好天下で、緑と小花をバックにした、紗がかかったようなぼんやりした写真であった。
『古いアイドルのブロマイドみたい…』
 写真屋で働いていても、写真というものの善し悪しが私には解からず、男たちが絶賛する江梨子の美貌も、私には伝わらなかった。写真の彼女は落ち着いた表情をしていたが、私には友人以上の他の人間には見えなかったのだ。
 男から見た美しい女と、女から見た美しい女が、必ずしも同じではないと気付いたのは、それから暫くしてからだった。
私は以降も、江梨子を「べっぴんだ」と意識したことはなかったが、彼女は変わらず男性からモテた。そのうち私の中で、〝江梨子は男にモテる〟という結論には至ったものの、彼女の何が男心を引き付けるのか、ついにわからずにいたのだが、私の母まで「江梨子ちゃんは美人やよ」と言った時、自分の中で、友人に対する客観的な目線が欠如していたことを思い知ったのだ。   江梨子が友人でなく、そこいらを歩いている見知らぬ他人だったなら、私の目も、彼女は引いたのかも知れなかった。
 社員の彼は既婚者だったが、十年以上の交際を経て、結婚に至ったと言う看護師の奥さんは、かなり嫉妬深いのだと聞いた。今は某大学病院の師長を務めていると言い、在宅ワークの夫が決して健康的な太り方をしているわけではないことを思うと、家計を担っているのがどちらなのか想像出来る気がした。
 彼は自分の結婚生活と、江梨子の結婚生活を重ねているのかも知れなかった。
 江梨子の夫はある程度理解のある人で、男友達の多い妻のプライベートに、口を挟むようなタイプではなかった。彼が昔バイトしていた写真屋の元社員で、それ以上の関係でないことも、理解の範疇だったと言える。彼女への連絡を絶やして、私へのメールが極端に増えた時、私はそれを彼に伝えたのだが、江梨子の元へ彼から再び連絡が入ることはなかった。
 社員の彼から食事に行こうと誘われた時、私の心は身構えた。そんなことは初めてだったからだ。
 彼には男友達より女友達が多いという趣旨の話を、以前聞いたことがあったが、私は彼にとって、友人でもなんでもない。江梨子と三人で呑みに行くことはあっても、その連絡さえ彼女から私に伝わるのが常で、私と彼との間で交わされた連絡が、江梨子に伝えられるという事態こそ異常であった。それなのに、何故私が彼と二人で会うことになるのか…。男からの誘いに下心を感じて脅威したというより、むしろ一種の薄気味悪さに身震いした。
 彼と連絡を取り合ううちに、気付いたことが幾つかあった。
 彼はれっきとした男性であったが、やり取りするメールは、女性的ですらあった。マメだと言えば聞こえは良いが、度を越している感が否めない。女友達同士でも、ここまで頻繁にやり取りすることはなかなか無かったし、私の発言一つ一つに一喜一憂するような文面に、私は自分の底意地が悪くなっていくのを感じた。彼は知り合いだが、友達でもなければ恋人でもない。そのうち、身内にも言ってはいけないようなキツイ返信を、気遣いもせずに返すようになっていることに気付いた私は、自分が恐ろしくなった。
 また、やり取りの最中、彼が看護師長の妻と離婚していることを告白したのだ。転職して地方に行っていたことと、今回地元に戻ってきたことに、それが関係しているのかは話さなかったが、十五年間の様々な変貌に、謎は多かった。
 私は彼からの食事の誘いを断った。
 今までこんなことはなかったのに、何故二人で食事をする必要があるのか…。そのような意味の言葉を、はっきりと投げつけたような気がする。今までと違う変化が、時に人生の中で起こることは少なくないが、彼との間で何か違うことが起きることを、私は一度でさえ考えたことも望んだこともなかった。
「新藤さん、岬のこと狙ってたん違う?」
 江梨子は面白がって嘯いた。
 そんなわけがない。私は自分が、男受けする女ではないことを知っていた。友人の言葉は、男に慣れた女が口にするような考えだ。
「んなわけないやろうけど、とにかく気持ち悪いし、意味わからん!」
 何故こんなに気味が悪いと感じるのか、自分でも解らなかった。
 新藤さんは、暫くして再び姿を消した。
 以前勤めていた職場に呼び戻され、名古屋へ行くというような話を聞いた気がする。私が嫌悪した彼からのメールは、それ以来途絶えているが、アドレスだけは消せずにいる。気味が悪いのは御免だが、削除することで消息を確認する手立てを失うのは、彼という人間を抹消するようで気が引けた。
もしかしたら彼は、何かに縋りたかったのではないかと今でも思う。尋常でない太り方や、突然の離婚告白、再々の転居は、ずっと同じ場所で変わらず生活している私にとって、普通とは思えなかった。
 
 無駄足を踏んで帰り着いた夜、アルコールが抜けないせいか、私が寝付いたのは明け方だった。
 翌日、麻佑子から飲み会参加者全員の連絡先が、メールで一斉送信されて来る。勝手知ったる仲間内や、既に知っている竹中のアドレスでさえ入力されているのは、彼女の無精故だろう。
 普段から顔色一つ変えず、淡々と仕事を熟す麻佑子だが、個々に応じて必要な配慮を細やかに行う気質という点は重視しない。
「別にどっちでも良いやん!」
 真顔で見つめ、一刀両断するのが浮かぶようだった。
 
 週末の連休を越して、職場で三人集えば、飲み会話に終始した。
 麻佑子に因れば、谷田さんから知香ちゃんに連絡が来たらしいが、彼女はスルーしたと言う。何だか可哀相な気がしたが、周りがとやかく言えるようなことではなかった。
 麻佑子も史佳も、竹中とは短いやりとりを済ませたと言う。史佳に至っては、野球の誘いを受けたようであった。
 史佳は小学生の頃、地元の少年野球チームに所属していた。運動が得意で、観戦するより参加するのが好みであり、たった一人の女子選手として、男子に混じってバットを振っていたのだと言う。社会人の野球チームを組んで、週末ごとに試合に高じているらしい竹中と話が合うのは、必然と言えた。
「野球の練習、観においでって言ってたから、皆で行こう!」
 史佳の感情を高ぶらせているのは、竹中が誘いを寄越したからだというわけではなさそうだ。彼女はしっかり、プレーする気でいる。そして案の定、こんな風に付け加えた。
「チームの中に、もっと良い人いてるかも知れん。そこで出会って、また飲み会やで!」
 彼女の果てしないエネルギーは、何処から発せられているのだろう。時々、史佳が自分より七つも若いことを不意に思い出す。一方で、サスペンスの二時間ドラマに熱中しながら煎餅を齧り、熱い緑茶を啜っているという話を聞くと、実年齢を偽っているのではないかと本気で疑う。恵まれた容姿を持っていながら、殆ど無趣味で、暇さえあれば風呂屋巡りに終始していると豪語するギャップが、私にとっては面白味のある人間として映る。モデル然としているモデルより、彼女のような異質性を備えた個体の方が興味深かった。
「私、野球に興味ないから、二人で行ってきて~。良い人おったらまた飲み会開いてや~。」
 麻佑子がのんびりした口調で言った。飲みの席では柔らかい表情を垣間見せるが、普段は実に淡々としている。冷静さは時に冷徹ですらあるが、彼女には他者からの評価を一切受け付けない自らへの自信と鋼の強さがある。
 この二人と付き合いがあることは、私にとっての刺激であり、不思議でもあった。
 心の何処かでは解っていた。独身で、職場の中で比較的若い部類に入る人間が、たまたま寄せ集まっただけなのだと…。他にも同世代は居たが、彼女達は既に伴侶やパートナーを持っている。複数で集うのが好きな史佳によって、私達は時に集団行動の場に狩り出されるが、飲みの席となるとメンバーは限られてくる。
「ない」と連呼しながらも、「30までに結婚する」と、30を過ぎた私達の前で息巻いている彼女の目的意識ははっきりしており、適齢期を過ぎて「良い人がおれば…」などと、のんびりを装っている私や、「旦那はいらんけど子どもは欲しい」と、目標を定めているのかいないのか判らないような麻佑子とは、若干温度差があるのかも知れなかった。
「私も、野球には興味ないんやけどな…」
 実際、全く興味がない。サッカーならまだ見ていても面白いと感じるが、野球はテレビのチャンネルで行き当たっても、即座に変えるか消すかするくらい、私の生活には居場所のない存在だ。それに史佳のように誘わているわけでもないのに、のこのこと付いて行く自分を想像するのも、気分が良いとは言えなかった。
 文佳は一瞬不貞腐れた様な表情を見せつつ、さっさと切り替える。
「まぁ、また日とか場所とか決まってから考えよ!」

 
 連絡先を訊いておきながら、連絡をしない意味がわからない。麻佑子から飲み会参加者の連絡先が一斉送信されてから、一週間以上経っていたが、津森さんから連絡が入ることはなかった。
 彼には何の気持ちも無かったが、連絡先を知りたがったぐらいだから、知った以上は何らかのアプローチがあるのかと思っていた。史佳が言うように、それこそ「次に繋げる」きっかけ作りにはなる気がした。見えない希望に期待を持てるほど前向きではないので、彼女のように出逢いたい誰かを待っているわけではなかったが、ある種の期待があったことは否定出来ない。私は再び、竹中に会えるのではないかと心の何処かで望んでいた。
 津森さんの連絡先は、一斉送信された時点でこちらにも届いていたが、気の無い相手に自ら連絡するつもりはなかった。連絡したところで繋がりたいのは彼では無い。既に私の中での一般論から逸脱している。その時点で礼儀知らずに憤る気持ちが何処かに生まれ、私はつい口を滑らせた。
「津森さん、私の連絡先を知りたいって言ったから、竹中に聞いてって言ったのに、連絡けぇへんってことは、ちゃんと連絡先伝わってないんかなぁ…」
 例の如く、「ないわ」と「次に繋げよう」を連呼していた史佳が、顔色も変えずに言った。
「津森さん、酔っぱらってたんやろな。相当呑んでたし…」
 私は自分が馬鹿なのかと思った。史佳にとって、私が男に連絡先を訊ねられるような女ではないと映っていたことを、その時まざまざと知ったのだ。あまりにもハッキリ言われたので理解するまでに時間が掛かり、彼女の言葉の裏を読み切ったのは、その日、仕事を終えて自宅へ帰ったからだった、
 私を好きだと言った人が、今まで居なかったわけではなかった。しかし何故か、自分が好きな人に振り向いてもらえたことは一度も無い。私を好きだと言ったごく僅かな地球上の男たちを、私は好きになれなかったし、有り難く気持ちを頂戴したとしても、彼らがそもそも、自分が生理的に受け付け難い相手だったということに、後になって気付くことが常であった。それをはっきり自覚してから、私は無駄に異性と関わることをやめた。好きでなくても何となく付き合っていれば好きになることもある…そんな風に言う人も、実際そんな風に付き合っている人も多いのかも知れないが、私には向いていない。そんな経験を積み重ねたのでも、かぐや姫のように言い寄る男たちに無理難題を押し付けて回避した苦労をしたわけでもなかったが、彼らとの関わりを通じて自分を知ったことには違いなかった。
 恋人にはなれなくても、友達になるのに抵抗は無かった。しかし相手が同じような気持ちでなければそれも難しい。私が竹中に抱く期待も、彼とのそんな相違から、まるで前に進む気配が無かった。
 ストレスが溜まれば、ついついピアノを弾きたくなる。幼い頃から習っていたが、素人の域を脱せずに、長い間閉じられたままだった鍵盤の蓋に触れようと思ったのは、ほったらかしにされて埃を被っている無駄を何とかしたかったせいだ。久しぶりに弾いてみると、何故だか心が落ち着いた。レベルは笑いが生じるぐらい落ちていたし、昔から一曲すら間違えず、まともに弾けた試しはないが、体に染み込んだ楽器の音は、精神安定剤の役割を果たした。
 史佳によって一笑に付された、女としての価値観は、自己否定にまで転落はしなかったものの、自身に対する客観的な眼差しを見せつけられた気がした。私がモテる女でないことは知っていたが、酔っぱらいの冗談ぐらいにしかならないほど、無価値であるとは知らなかった。
演奏の合間に疑問をぶつけたくなった。
〔津森さんから連絡けぇへんけど、こっちの連絡先ってちゃんと伝わってるんかな?〕
 単刀直入過ぎただろうか…。彼はこの一文を、どんな気持ちで読んだのだろう。相変わらず愛想が無かったが、返信は意外と早かった。
〔ちゃんと伝えたよ。気になるなら自分から連絡してみれば?〕
 顔面を殴られ、その顔が、石のように砕けてガラガラと崩れ落ちて行く気がした。情けなくなる。何と書いても言い訳にしかならない気がしたが、スルーすることが出来なかった。
〔そういうつもりではないんやけども…。まぁいいわ。忙しいのにごめんね〕
 想像通り、竹中から返事が来ることはなかった。
 彼にとって私は何なのだろうと思う。彼自身も、わざわざ連絡先を訊ねながら、自分から連絡して来ることはない。初めて会った時、軽薄でしかなかった彼は、一歩引いて見れば実に内向的で、裏と表では全く別人であることがわかる。相手がまるで興味の無い私であるというのが理由なのか、実際顔を合わせた時と、ツールを間に挟んだ時では、あまりに性格が違った。
 私の個人情報など、彼にとってはコレクションのひとつに過ぎず、軽薄な社交家を演じる上で必要とされるだけで、それ以上、何の価値も持たないのかも知れなかった。

 
 どんなに早く気付いても、受け容れるまで頗る時間が掛かることがある。
彼より見てくれや心根の良い男なんて他にも居たはずなのに、それでも惹かれなかったのは、捕えるものが違ったせいだ。
 相手にされない寂しさに孤独を感じて、目先の物足りなさを我慢しない点を優先した。
 脈が無い…。
 早々にキリを付けることで前へ進もうとしたのに、現実ではいつまでも引き摺っている。自分の心の内側にまでしっかりと眼差しを向けてやらなかったせいで、自分の心に対する責任が取れなくなってしまった。過ちを受け入れる覚悟をしなければならない。
 彼は恐らく、運命の人だった。彼の中での私は、唯の通行人でしかなく、記憶にさえ留められる存在ではなかったのかも知れないが、私にとっては確実にそうであった。
 先が無くても、永遠に抱えて生きねばならない。出逢いたいときに出逢えた人がいなかったことを思えば、きっとそれが真実だ。
 愛は与えるものだという。私には与える手段が、もう見つけられない。愛は唯、胸の内に抱えていくもので、二度と陽の目を浴びないが、私はそれを支えに老いて行く。
 言わなければわからない、言わなければ伝わらないと思っていた。黙っているから独り相撲を取って苦しむことになる。言葉に出して伝えなければ、蟠りだらけだった。それに気付いてから解決したことが山ほどある。言わないことが美学だなんて、そんなの、独り善がりでカッコつけの戯言だ。
 でも、言わなくても良いことは、実際幾らでもある。それがどんなことなのかなんて、私には殆どわかっていない。彼は何も言わない人だった。
 最後のメールを今でも覚えている。
〔メール…結構愛想無いよな〕
〔よく言われる〕
〔愛想無いと寂しいから、もうやめとくね〕
 繋げていたかった蜘蛛の巣のような繊細な糸を、断ち切ったのは私の方だった。自分のその手で、その指で、ボタンを一つか二つ押して、彼の連絡先を抹消したのだ。
 駆け引きなんて出来なかった。
 最初から私に居場所なんて無かったのに、居場所がある素振りを見せられたのだと錯覚した。彼にとっては日常的で、特別意味の無いことが、私にとっては真新しく、滅多に無いことだった。居なかった私の連絡先をわざわざ尋ねたこと、仲間から離れて私の隣を歩いたこと、私にとっての非日常が、彼の与えた勘違いだった。それが私の中でどんどん大きく膨らんだ。それに気付いた時、自分がどんなにつまらない女なのか、鏡越しに見せつけられた気がした。
 錯覚は時に、妙な自信さえ生み出した。彼の抱えている闇を、私なら何とか出来るのではないかと考えたのだ。
 しかし彼の方が心を開かなかった。私がそうするに値しなかったからなのか、彼がそんなことを望んでいなかったからなのか、そもそも、闇などひとつも抱えていなかったのかも知れなかった。
 もう何年も経つ。なのにあの人の雑事を消し去ることが出来ない。他の誰かと出逢うことも無かった。忘れるというところまで辿り着けずに、私は他の何処かへ行かなければならないはずだ。
 前も後ろも、もう無い気がしている。恋心を封印しなければ、心穏やかではいられない。行けないほど遠くはないのに、行くほど近くも無いところにいる彼は、既に新しい生き方で現在を歩いているのだろう。
 
 受験者は三人で、私を除いた二人は共に、私よりも十歳以上年上だと見受けられた。
 筆記試験の後、一旦廊下に出される。筆記試験が行われたその部屋が、バタバタと面接用に配置換えされた。待合場所も同じ廊下で、三人中三番目だった私の耳には、壁一枚隔てた室内の様子が、俄かに洩れ聴こえた。
 一人目の受験者が去った後、面接官のドッと盛り上がる声が聞こえた。相談する声が陽気で、評価が良かったらしいことが窺える。こんなに聞こえいて良いのだろうかと危ぶんだが、本人達に聞こえている意識は無いらしい。当の受験者はエレベーターに乗り込んだ後なので、自身の評価に驚くことも無かっただろう。
 二人目の受験者が同じ段階を経て去った後、一人目と打って変わって静まり返った室内の様子を察して、結果が手に取るように伝わった気がした。
『私が落ちたら合格者は一番目の人だろう…。』
 職種や職務経験からも、優遇されるのは彼女だろうと察するのは難しくなかった。
 
【二兎追う者は一兎も得ず】などと言うが、それは私の実生活に於いて、日常的に起こる格言の一つとして定着しつつあった。私の人生には、手に入らないものが多過ぎる。一つに集中しても手に入らないから、当たって砕けるつもりで手当たり次第身を投じてみるが、それでも手元に残るものが一つもない…。そういうことが少なくなかった。
 再就職のための受験結果が、同時に同一者の手から速達で届けられた時、結果を選択したのは試験官ではなく、神なのではないかと思った。一つは採用で、一つは不採用。そう書かれた書類を目にした時、私は彼への道筋を、完全に閉ざされたのだと感じた。
『縁が無いということか…』
 結果が心をも潔くさせると何処かで信じていたのに、私は落胆した。
 全く以て勝手な希望の光だった。
 彼の住む街で働くことになったのだとしたら、私は自分の確信を運命だと信じるつもりでいたのだ。
 私は彼が暮らしているであろう街とは真逆の地で、初めて携わる仕事に就くことになった。
 彼は運命の人だと信じていたが、それは必ずしも未来に繋がる相手というわけではなく、未来から手を引くきっかけを与えるという意味での、運命を抱えていたのかも知れなかった。
 いつか忘れる時が来るのだろうか。そもそも、私は忘れたいのだろうか。
 あまりに感覚的に生きている…そう思うが、それが私の生き方だった。
 今更変えられるのだろうか。
 頭の中にある考えがずっと在った。
 もし、彼が暮らす街で働くことになった時、彼が恋人や伴侶、若しくは子どもなんかを連れている姿を見かけるかも知れない。そうすればきっと諦めがつくのだと…。
 奇跡のような、捨て去るための希望さえ、私には与えられなかった。
 私はどう生きるのだろう。
 始まりもせずに消えてしまった運命の存在と、それを断ち切った自分の長い指を見つめて、私は今日もピアノに向かった。

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