就職試験

 就職試験に落ちた。今年に入って五回目である。四回落ちてしたいことが潰え、路頭に迷っていた時に「これだ!」と直感が働いたのが今回の仕事。しかし、直感が働いたのは私だけではなかった。友人を含め、知人の知人を含めても、志望者の中には既に五人も知り合いがいた。結局、募集人数に対して十倍以上の難関となった。
 いつも自信がなくて、落ちることを考えながら通知を待つ私は、今回ばかりは念を送り続けた。
『受かれ!受かれ!』
 とんでもない倍率でありながら、受かることを信じた私は馬鹿に他ならないが、三度目の正直ならぬ、五度目の正直。過去四回がまさかの結果に陥ったのは、今回の仕事をする為だったのだと考えさえした。
 昔なら考えられないほどの前向きさである。我ながら可笑しいとは思うが、嘗て後ろ向き過ぎて鬱になり、人生の貴重な時間を山ほど無駄にした上、心身のしんどさに耐えきれずにのた打ち回った経験から、様々な人々の助言に励まされて、心の底から新しい人生を始めようとした。自己変革だった。
 不採用通知を見て、夢のビジョンはガラガラと音を立てて崩れ去った。
『またや…』
 暗い思いが胸を過ぎる。
 何故か昔から、直感を信じ、心から本気で欲したものは、必ず手に入らない。努力も決意も、決して実らないのである。私は自分を信じてはいけないのではないかと考えるようになった。
 しかし、心を掴まないものを欲することが出来るだろうか…。それに〝妥協〟という名を付けて、無難に生きて行こうと出来るのか…。
 答えはNOである。
 妥協していることは相手に伝わる。伝わらなくても、自分が続かなくなるのである。
 私は自我が強すぎるのかも知れなかった。
 
 ある友人に言われた。
「取り敢えず何でもやってみたら良いねん!」
 毎日目的もなく、昼夜逆転でゲームばかりしていると言った私への、妥当な助言であった。
 確かに…社会人年齢になって十何年にもなる大人が、裕福でもない親の脛をかじってダラダラしているなど、普通ではないのだろう。気持ちがあろうがなかろうが、生きて行くためには仕事をしてお金を手にする必要に迫られる。頼る親がいる人ばかりではないのだ。
「一回家出てみたら?」
 んなこと出来るわけがないだろうが…。
 偉そうに言えることではないが、仕事もないのに家を出たら野垂れ死にである。たとえ、家を出て仕事を得たとしても、一人で生きて暮らしていくのはそう簡単ではない。それを知っているから、私は家に居るのである。
 自分が甘すぎるのでは…という考えは常に付きまとう。人と比べるものではないはずだが、どうしても比べてしまう。それは、自分よりも過酷に生きている人に対してでもあるし、逆に、自分より楽に生きている人に対してでもある。自分以外の生きるお手本には、右を見ても左を見ても事欠かない。家や子どものためにボロボロになって働いている人もいれば、もう十何年も仕事をせずに、ずっと引き籠っている人もいる。其々が其々の事情でそうしていることがわかっているだけに、私は自分で自分を甘やかしている現状が、必ずしも悪だと考えきれなかったりもするのだ。唯、私の現状とは、世間一般から見て、認められるべきものではないということだけが、はっきりと身に染みて感じられる。友人知人が尻を叩こうとするのもわからないではない。
 では、尻を叩こうとする人々が、嘗て今の私のような現状に立たされたことがあったかというと、それはまた別の話である。尻を叩こうとする人ほど、実は苦労せずに職に就いていたりする。同じ職で何年も食べているし、かといって、ボロボロになるような働き方もしていない。実際は、生活に困らないが暇があるから…という理由で働いているだけの主婦であったりするのだからわからない。
 世の中って不公平だ。
 彼らは一様にして言う。
「あんたは色々考えすぎる」
 私は石橋を叩き過ぎるのだろうか…。
 しかし叩くことを控えて渡ってみても、ずっと失敗してきた人間である。失敗を恐れるし、出来るならもう失敗したくないと考えるのは、可笑しいだろうか…。私は学習し、同じ過ちを繰り返さないように生きようとしているのに、未だに同じ過ちから抜け出せずにいる。
 
 今回、望みが潰えたことに対して、ある友人は言った。
「ご縁があるものが他にあるのか、今回やりたかったことの時期がまだ巡って来てないのでは…?」
 四度失敗した後の確信が私にとっては前者であったが、まだ他に何かあるというのだろうか…。それとも、いつ来るかわからない後者を、待ち続ける必要があるというのだろうか…。
 私は色々と焦り過ぎているのだろうか…。
 とはいえ確実に、私は何の答えも結果も導き出せないまま、今ある時間を見つめながら通り過ごしている。出来ることは何でもやっているが、そこから繋がるものがまるでない。
〝分相応〟という言葉があるが、私がしようとしていることが、常に分不相応なのだとしたら、私は一体何を目指し、何になろうとすれば良いのだろう…。
 自己評価は決して高くない。しかし、他己評価はそれ以上に低い気がしている。もう何年も…ずっとだ。
 
 五人の知人の内、私を含めた四人が、同じ日に不採用通知を受け取っていた。事前に伝えられていた発表日より一週間も早く届いたことから、真っ先に切り捨てられたように感じて、私は打ちのめされたのだが、実情を知って少し落ち着いた。
 残りの一人に通知が届かないのは、合格したからだと考えた。其々に緊張が漂う。十倍以上の倍率を超えて、合格通知を受け取った人の顔が見たかった。一日が一週間にも思えた翌日、残りの一人であった友人からメールが届く。
〔届いたよ!不採用通知♪ハローワーク通い頑張ります!〕
 心の中で渦巻いていた嫉妬にも似たドロついた感情が、一気に吹き飛んだ。
『何でそんな嬉しそうやねん…』
 十倍以上でも、受かる人は受かる。それが友人ならすごいと思っていたが、実際そんな事態が起こったら、私は狂ったかも知れない。私って、大人じゃないし、美しくない。
 私は友から学んだ。負を正に変えようするかしないかは、自分自身なのだ。背景には、家庭の事情により、彼女が受験を迷っていたこともあるのだが、どんな形であれ、不採用が届いて嬉しい人などなかなかいないだろう。
十倍以上で受かった人の顔を拝むことは出来ないが、今回に限り、私はひとりではなかった。過去四回中、ひとりだったこともあったが、もう既にそれは超えている。少しでも違う形で捉えられることを、わざわざ最悪の形で受け取る必要はない。
 少し休んだら、また、新たな一歩を踏み出すために、〝他のご縁〟を探したい。それが本物で、私にとっての過去最高なら、それに越したことはないのだけれど、自分の直感の信憑性に全身を委ねられるのは、暫く先のことになりそうだ。
 自分を信じられるようになるために、私が私に出来ることがまだ見つからない。私を良い意味で特別扱いしてくれる場所が見付かれば、簡単に払拭出来そうな気がするが、世の中は水飴ではない。
 私は凡人で、世間から愛される運も才能も持ち合わせてはいない。しかし、何度踏み潰されても、夢も希望も持てなければ、生きて行けなくなることは知っている。
 たった一度の人生を生きて、いつか「生きるって素晴らしい!」と、古い映画のように叫びたい。

 

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