死にたいのうた
私はしにたい。
なんだかむずかしい言葉を連ねることもできそうだけど、
簡単にいうととにかくしにたい。
「おかあさんがいなくなったら、ひとりになっちゃうよ」
と、7さいの息子はいう。
「そんこといわない。お母さんはいなくならないから大丈夫」
とふんばるけど、私の背を支えるものは私しかいない。
私がいなくなったらと考える。
誰が息子の面倒をみれるだろうか。そんな人はいない。
だから私は死ねないし、死ぬわけにはいかない。
もっと私が強くあれば、息子も楽に暮らしていけたかもしれない。
けれどそうじゃない現状は変えられないから、弱い姿もさらけだして育てていくしかない。
息子の目の前には、とびきり弱い人間がいる。
どんな心持ちだろうかとつらくなる。
それらを表現して消化するつよさと、私のような弱い人間を否定しない優しさをもってほしい。
だし、息子にはそれができると思っている。
子を身籠ったときに真っ先に考えたのは、自己犠牲についてだ。
私ひとりなら、自分よりも他者を優先してきた。
では息子はどうか。
私は息子よりも他者を優先することはきっとできない。
息子には、人を優先できるようになってほしい反面、なんとしてでも自分を優先してほしくもある。この矛盾はなんとしたことだろう。
私はしにたい反面、いきたい。
生きて息子を健康に育て上げたいし、その成長を見守りたい。
これもまた矛盾。
ほんとうに難しい、考えるとややこしい。
でもきっとこちらはどちらかが正しいわけじゃなくて、
しにたいと思いながら生きることだって可能だし、
自己防衛のために他者を優先することだって可能だ。
そんなわけで、わたしは死にたい。
しにたいと言わせてもらうし、そんなことを思いながらでも毎日ニコニコと暮らしているし、たまに発狂して沈黙もする。
誰に何を求めるでもなく、
干渉することもなく、
はじめからなにもなかったかのように、静かに消えてなくなりたい。
それらを叶えるべく、今日も誰の目につかず、
息子には外の世界へと目を向ける準備だけして、
静かに、静かに生きていく。
息子がグレて「こんな家、出てってやるよババァ」と言ったあと、「何言ってもいいが大学にだけは行っておけ」と送り出し、旅立つその日に「これ持っていけ」と渡します。