見出し画像

分かち合いの文化、お雑煮。

はぴみんのずんだ党フードサミット 雑煮編 もっと深掘りトーク②





お餅は神聖な食物

日本では、古来より、お餅には、稲の神様が宿っているとされていました。そのため、お餅を食べると新たな生命力が授けられると信じられ、さまざまな節目の行事やお祝いごとのたびに、お餅が食べられてきました。
特にお正月には、お餅を年神様(としがみさま)にお供えして、稲の神様だけでなく年神様の魂も宿ったお餅を食べることにより、新しい一年の幸福と平安を招こうとしました。
(「大人の常識 日本のしきたり・年中行事」飯倉晴武監修 KADOKAWA ©2016 40ページより)

ちなみに、年神様とは、「各家庭のご先祖様であり、山や田の神様でもあるため、子孫繁栄や豊作をもたらしてくれる新年の神様」だそうです。
(「大人の常識 日本のしきたり・年中行事」飯倉晴武監修 KADOKAWA ©2016 26ページより)


現在も崇拝されている 縄文の神様

哲学者の梅原猛(うめはらたけし)さんは、この山や田の神様は、縄文時代の神様が弥生時代に生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されているものではないかと、「縄文時代の世界観」(「縄文人の世界―日本人の原像を求めて」所収)という講演で述べています。その内容を少し詳しく見ていきましょう。

土器をともなった狩猟採集文化すなわち縄文文化は約一万年の間、日本に続いているのです。そして、稲作文化が入ってきたのは約二〇〇〇年前、どんなに古く見積もっても約三〇〇〇年前であります。縄文時代すなわち狩猟採集時代は、稲作農業時代すなわち弥生時代から江戸時代までの二〇〇〇年あるいは二五〇〇年の四、五倍であります。この一万年という長い時に、私は、日本の基層文化がこしらえられ、このような文化が後の文化に大きく影響を与えていると思われます。
 民俗学者の柳田國男はたいへんおもしろいことを言っております。それは山の神が田植えとともに森山から田にやって来て、田の神となり、稲刈りが済むと、また山に帰って山の神になるということです。縄文の神様である山の神が、田植えとともに田の神すなわち弥生の神様となり、また稲刈りが済むと山に帰って、もとのような縄文の神様になるというわけです。
 私は日本の神社には必ず森があることに注意をしたいと思います。寺は必ずしも森を必要といたしません。しかし、神社には必ず森があります。これは日本において神様のいるところは必ず森でなくてはならないということを意味します。これは縄文の神と弥生の神との連続性を示すものであります。神道というものはこの縄文の山の神・森の神の崇拝にもとを発するものであると思っています。そして、弥生時代以後に山の神・森の神が田の神にもなるわけでありますが、このことは縄文の神が弥生時代に生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されていることを示すものであります。

「縄文人の世界―日本人の原像を求めて」(梅原猛 編集 角川学芸出版 ©2004)14ページより

アイヌ文化と縄文時代の死生観

 自然人類学において縄文人の人種的特徴を最も所有しているのがアイヌの人たちであるとすれば、アイヌ人こそ、やはり混血の進んだ日本人の中で最も縄文人の身体的特徴を保存していると言えます。こういう人たちの宗教や文化を参考にしながら縄文文化を考えていくことによって、縄文文化の本質が明らかになるのではないでしょうか。

「縄文人の世界―日本人の原像を求めて」(梅原猛 編集 角川学芸出版 ©2004)16~17ページより

ということで、梅原さんは、あるアイヌのおばあちゃんにお話を聞きに行きます。

 ある日、私はばあちゃんに次のようなことを訊きました。「ばあちゃん、アイヌの小さい子どもが死ぬとどのように葬られますか」と。「それはなあ、小さい子どもはふつうの人のように葬られないよ。アイヌではすべての人はご先祖さんがまたあの世からこの世に帰って来たと考えるのだよ。ご先祖さんが遠い遠いあの世から帰って来たのに、一年や二年や三年で心で、またあの世へ行くのは可哀想だと考えて、壺に入れて家の入口のところへ埋めるんだ。人がよく通るところへ、次の子になって生まれてくれという思いで逆さに埋めるんだよ」とばあちゃんは言いました。
 それを聞いて私は、縄文時代において子供が壺に入れられて家の入口に逆さに埋められているのを思い出しました。おそらくそれは、はるばると遠いあの世から帰ってきた祖先の霊に申しわけない、その霊に再び母の胎内に帰って次の子になって生まれて来いという願いゆえであるに違いない。

「縄文人の世界―日本人の原像を求めて」(梅原猛 編集 角川学芸出版 ©2004)21~22ページより

 この北陸地方に特殊な縄文時代の遺跡があります。
 (中略)
それは木をサークル状に並べる遺跡です。とくに真脇遺跡はその中でも最も巨大な遺跡です。堅い、腐りにくいクワの木を半分に割って、一〇ほんのヒノキの丸い方を内にして並べたものであります。その柱はいったい、何を意味するでしょうか。私はやはり、柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、人間も柱を上って神のところへ行く。柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います。これらの遺跡には柱を何年かごとに建て替えた跡があります。真脇遺跡からは、無数のイルカの死骸などが出てきました。そのサークル状に囲まれた空間は神秘的な儀式が行われる場所であったに違いないのです。そのような柱の遺跡が、諏訪神社の六年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、二〇年に一回、お遷宮をする伊勢神社の神事と結びついているに違いないと思います。そこには世界を循環で考える考え方があります。
 このように考えますと、縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、そして生きとし生けるものがすべて、この世とあの世の間を循環する世界観であるということがわかります。この共存の世界観は、近代の世界観である、人間が一方的に生きとし生けるものを支配し、その支配することが人間にとって幸福であり進歩であるという近代の人間中心的な進歩史観とは全く違います。この「生命の永久の循環」という考え方は、生命というものを遺伝子と言い換えれば、まさに現代の科学の解明した世界観であり、これこそ今後の人類に必要な世界観であります。
 このように考えると、縄文人の世界観は決して過去の世界観ではなくして、むしろわれわれが取り戻さなくてはならない、未来の人類が生きていくために是非必要な世界観であると思います。

「縄文人の世界―日本人の原像を求めて」(梅原猛 編集 角川学芸出版 ©2004)26~27ページより

「アイヌではすべての人はご先祖さんがまたあの世からこの世に帰って来たと考え」、「縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、そして生きとし生けるものがすべて、この世とあの世の間を循環する世界観である」ということと、年神様は「各家庭のご先祖様であり、山や田の神様でもあるため、子孫繁栄や豊作をもたらしてくれる新年の神様」であるという信仰は、とても親和性があるのではないでしょうか。

年を取るとは、自分を全く新しくすること

また、アンチエイジングが推奨されて久しい今の日本社会では、若々しいことが称賛され、年を取ることはあまり歓迎されませんが、お正月に年を取るということが非常に尊ばれた時代もあったようです。
「餅」(大島建彦編 岩崎美術社 ©1989)所収の「餅の宗教性」(野口長義著)というお話は、昭和十四年十二月ニ十六日にAK放送で語られたものですが、「我国の古風」では、年を取るということが、どう捉えられてきたかを詳らかにしています。


お年玉と申しますと今では手拭とか半紙とかいうような色々の品物のことになっておりますが、本来は家の者銘々が食べる丸い餅のことでありまして、これを年の餅とも呼んでいました。昔はこれを食べることによって始めて年を取ったのであります。年を取るということは以前は非常に大事なことでありまして、単に年齢がーつふえるというだけの意味ではなく、寧ろ新しい生々とした状態になるというのが年を迎える最も大きい趣旨であったのであります。我国の正月の目出度さというものは実にここにあったのであります。ですから年の餅は臼で揚いた時から、これは神様の分、これは家族めいめいの分とキチンと決まっておりまして、牛や馬や農具のようなものまでにそれぞれ供えて年を取らせたものであります。暗い台所の棚などへ鼠の分まで置いておくという風で、つまり年取りには是非餅は食べねばならぬものとなっていたことがよく解るのであります。このように年取りの餅は神様が配って下さるもののように感じて来ていたのであります。
(中略)
現在どこの家でも祝うお雑煮というものは古くはこのように霊の寵ったものを食べて我身を全く新しくするという信仰に発していたのであります。

「餅」(大島建彦編 岩崎美術社 ©1989)所収「餅の宗教性」(野口長義著)8~9ページより

年齢を数え年で考えていた時代では、その人が誕生した日ではなく、お正月の元旦にすべての人が年を取り、牛や馬や農具のようなものまでみんな一緒に年を取ったのですね。
そして、「新しい生々とした状態になるというのが年を迎える最も大きい趣旨であった」し、「お雑煮というものは古くはこのように霊の寵ったものを食べて我身を全く新しくするという信仰に発していた」と言います。

このように一旦神様に差上げたものを卸して頂く方は直会とよばれておりますが、相饗や直会によって神様と人とがーつになる場合のほか、人と人との間のつながりをつけたり、或はこれを一層強めるためにもお餅の贈答を致します。親戚縁者などへ年賀のお餅を贈るのであります。大体正月とかお彼岸とかいう節の日に食べるものは村中一様なのであります。自分の家で搗いて食べる日にはお隣りでもまた同じものを搗いて食べています。それにも拘らず親戚近隣に配り、また先方からも同じものを贈って来るというのは物と物との交換というのでは意味がありません。本来は特別な意味のある食物を家の者だけで祝うばかりでなく他の人々にも分けて食べ合うことによってお互の縁を濃くしようという目的に発していたのであります。

「餅」(大島建彦編 岩崎美術社 ©1989)所収「餅の宗教性」(野口長義著)9ページより

しかも、神様にお供えしたお餅をいただくことによって、神様と人が一つになり、さらに、他の人々とも分け合って食べることにより、人と人とのつながりをより深めていったのです。
お正月に、大切な人たちと一緒にお雑煮を食べ、神様の魂が宿ったお餅の力によって、心身を新しい生き生きとしたものにする体験を分かち合うという清らかな精神性が息づいていた時代もあったのですね。
そういったことを尊ぶ風習が薄れてきている近年ですが、改めてその神髄を思い出し、大切にしていきたいと強く思います。
まずは、心身を清々しいものにすることを共に喜び合えるような人との関係を築いていくことから始めようと考えています。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?