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【眠れる森の美女】はこうして出来た:チャイコフスキーの残した記録から

バレエ作品というのは、どのようにして作られるものなのか。他の芸術では絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、画家がいて、作家がいて、となんとなく想像はつきますが、総合舞台芸術であるバレエの場合、人がどのように、どんな順番でかかわり、どう進行して完成まで行き着くのか、もう一つわからないところがあります。

バレエを構成する要素として(特に物語のある大きな作品の場合)、まず台本があり、それに沿った音楽があり、そして振付、さらには舞台美術(衣装、舞台装置、照明など)があると思われれます。

 バレエは上演されて初めて作品になるのか、それとも一度も上演されていなくても、すべてのプランが出来上がり上演できる状態であればもう作品なのか。それとも音楽は音楽、振付は振付とそれぞれ別々に作品となるのか、そのあたりもよくわかりません。

そもそも制作のスタート地点はどこなのでしょう。作曲家が題材(物語など)を見つけて振付家に話を持ち込む、あるいは劇場側(ディレクターなど)が作曲家に題材を提案して音楽を委嘱する、あるいは振付家が直接、作曲家に新作の依頼をするなどいろいろなケースがありそうです。

古典作品をいま上演する場合は、すでに音楽があり、振付も元になるプティパ版、フォーキン版などが存在し、現代のバレエ団はそれに沿ってアレンジを加えていると思われます。ただ、そういった過去作品の振付は、どのようにして次世代に伝えられてきたのか。

今回わかったこととして、かつて舞踊譜というものがあって、いくつかの記譜法が存在したようです。もちろん現代であればビデオで記録する方法がありますが、昔は主として人から人へと踊りの動きを実演の中で伝えていた、と考えるのが自然です。

とここまで書いたところで、1956年に発表され現在も使われている舞踊記譜法を発見しました。ベネシュ・ムーブメント記譜法(BMN)と呼ばれているもので、ルドルフ・ベネシュとジョーン・ベネシュによって考案された、バレエの動きを正確に3次元で紙の上に表現できるものだそうです。記譜をする人のことをnotatorまたはchoreologist(記譜者)といい、BMNでは資格を与える認定証やディプロマも発行しているようです。資格を得るための養成所(学校)もあります。

BMNの記譜法による『ジゼル』第1幕のグラン・パ・ド・ドゥ(プティパ版)
舞台上のダンサーの位置情報(⚫️が女性、○が男性)

このようにバレエが記録されると、著作権が発生します。一般に振付の著作権は振付家に、楽譜の著作権はバレエ団にあるようで、notatorは振付を見て記録するだけなので著作権は手にしません。フリーのノーテーターがロイヤル・バレエ団で振付を指導している動画を見ました。この人の場合、大判の舞踊譜を譜面台に置いて、それを見つつ、自ら体を動かしてダンサーに指導していました。

この動画でコレオロジストのアマンダ・アイルスさんは、映像記録があったとしても、舞踊譜を使うことは、古典作品でも新作でも、振付家の意図をより詳細に深く汲むために重要だ、と言っています。一つのビデオは一つの表現の例に過ぎないということでしょうか。


さて、ここで最初の疑問に戻ります。バレエ作品は具体的にどのような手順で作られるのでしょう。

基本的な制作過程として、多くの場合、まず台本を書き、次にそれに基づいたシーンごとの音楽がつくられ、そこに振付がなされるという順番だと思います。振付が先にあって、そこに音楽をつけるということがあるのかどうか。

というわけで、過去の作品がどのように作られたのか、見てみたいと思いました。

参考として取り上げるのは、チャイコフスキーの3大バレエの一つ『眠れる森の美女』です。これはフランスの作家シャルル・ペロー(1628〜1703年)の物語集『昔話』(1697年)の中の一つで、イタリアの物語「太陽と月とタリア」の再話のようです。Tchaikovsky Researchのサイト他を参照しつつ探索をしてみます。

チャイコフスキーは1889年1月、友人でパトロンでもあったナジェジダ・フォン・メック夫人への手紙に、ペローの「眠れる森の美女」を題材に作品を書いていると伝えています。チャイコフスキーの話では、この作品はマリインスキー劇場(サンクトペテルブルク)のディレクター(フセヴォロシフスキー)の発案で、引き受けた作曲家自身、題材として非常に気に入っていたようです。台本はそのディレクター自身が書き、第3幕に「長靴をはいた猫」「赤ずきん」「青い鳥」などの童話の主人公を登場させるアイディアも彼から出たものでした。

振付はマリインスキー劇場のバレエマスターのマリウス・プティパが行ないました。プティパは台本製作にも関わっていたようで、その際、各シーンごとの長さ(小節数)まで細かく指定していたようです。たとえばこんな風に。

第1幕
 Pas d'action:
(a) Adagio ["Rose Adagio"]
   Andante—Adagio maestoso (82小節)

チャイコフスキーはバレエ『眠れる森の美女』の作曲とオーケストレーションを1888年10月から1889年8月にかけて行ない、その後、リハーサルの中で修正を加えていったとされます。

チャイコフスキー、ディレクターのフセヴォロシフスキー、振付のプティパの3者は制作過程で何回か会って話をしています。場所はサンクトペテルブルクのプティパの家やフセヴォロシフスキーの家でした。1888年11月18日に1回、さらに12月24日から翌年1月6日にかけて会談をもち、その際チャイコフスキーはプティパから第1幕と第2幕の詳細なプランを渡されています。サンクトペテルブルクから戻ると、チャイコフスキーは作曲に没頭し、1月末までにプロローグ、第1幕、第2幕をほぼ書き終えたようです。

さらに2月3日にも3者で会っており、そのときプティパは第3幕・第5場の詳細なプランを作曲家に手渡しています。翌日の2月4日には、チャイコフスキーは第1幕を通しで二人に(おそらくピアノで)演奏して聞かせました。その後チャイコフスキーはまた旅に出ていますが、その途上、第3幕の作曲に手をつけています。

チャイコフスキーはモスクワ近郊の村、フロロフスコエに家があり、そこからプラハ、フィレンツェなどヨーロッパ各地に仕事で出掛けています。忙しいチャイコフスキーは、旅の途上でも作曲の手を休めず、地中海を渡る際、マルセイユとコンスタンチノープル間の蒸気船カンボッジ号で、第3幕のためのポロネーズを作曲したとあります。

1889年6月11 日からチャイコフスキーは『眠れる森の美女』の楽器編成に取りかかり8月末までほぼ家を離れることなく、オーケストレーションに集中したようです。双子の弟の一人モデスト・チャイコフスキーへの6月14日の手紙に、「私はすでにバレエの楽器編成を始めており、一日中机に向かっている。9月には間違いなくすべて完成しているだろう」と書き送っています。
*日付はすべてグレゴリオ暦で表示しています。

プティパの詳細なシーンごとの指示書、それに曲をつけるチャイコフスキーの集中が目に浮かぶようです。

プティパはオーケストレーションを待つ間、バレエ団のダンサーに役ごとの振付を行ないました。9月から始まったリハーサルでは、チャイコフスキーがソリストの踊りに伴奏をつけることもあり、踊りに合わせて曲の長短など修正したそうです(初代オーロラを演じたカルロッタ・ブリアンツァの話)。

 作曲家立ち会いのもと行なわれる振付とリハーサル、おそらく台本を書いたフセヴォロシフスキーも見守っていたのでは。
バレエ作品誕生の現場、ですね!

チャイコフスキーのバレエ曲は、様々な楽器による響きの面白さや美しさが特徴です。また一つの楽器が特定の登場人物(踊り手)のキャラクターを表している場合もあり、音と踊りのコンビネーションの楽しさがあります。別の作品(『くるみ割り人形』)での話ですが、作曲中に当時発明されたばかりのチェレスタという可愛らしい音を出す鍵盤楽器を旅先のパリで目にし、チャイコフスキーは知り合いの出版社に購入を頼みました。その際、音楽仲間でライバルのリムスキー=コルサコフには秘密にしてくれと頼んだといいます。自分より先に、この楽器を使われたくなかったようです。チェレスタは「ベルピアノ」とも呼ばれ、『くるみ割り人形』の中の「こんぺい糖の踊り」で非常に効果的に使われています。

チャイコフスキーはいつも熱意を込めてバレエ曲を書いていたそうですが、特にこの『眠れる森の美女』は、オーケストレーションしている間にも、自分の最高傑作になりそうだと予感し、すっかり作曲に没頭したようでした。

ところでこの作品の制作者3人(すべて男性:バレエ関係者は男性が多かった)は、みんなフランス文化と馴染みが深く、フランス語にも通じていました。チャイコフスキーは母がフランス系、プティパはマルセイユ生まれ、フセヴォロシフスキーはパリの大使館勤めをしていた元外交官。台本もフランス語だったようで、『眠れる森の美女』はその意味でフランスの香り漂う作品と言えそうです。フセヴォロシフスキーは多彩な人だったようで、台本だけでなく、衣装のスケッチをしたり舞台装置のディレクションもしています。

ところでフセヴォロシフスキーは、このプロジェクトがスタートした1888年に娘を16歳で亡くしており、その死を悼みつつ『眠れる森の美女』の台本を書きました("Behind the Fairytale" by Sebastian Cody)。

オーロラ姫が100年の眠りについたのは、16歳の誕生パーティでのこと。娘の死とオーロラ姫の長い眠り。オーロラ姫はリラの精に救われて死を免れ、100年後の再生が約束されます。しかしフセヴォロシフスキーの娘は、、、と考えると、どんな思いで彼はこの作品を制作していたのだろうと考えてしまいます。ちなみにチャイコフスキーはこの作品の音楽をフセヴォロシフスキーに捧げています。

この作品の初演は1890年1月15日、マリインスキー劇場で行なわれました。1890年といえば、フランスではドビュッシーが頭角をあらわし、印象派と呼ばれる音楽が生まれた時代で、モーリス・ラヴェルも15歳になっています。『眠れる森の美女』は宮廷を舞台にした、19世紀的ロマンに満ちた物語作品と言えますが、それが古びることなく21世紀の現代にまで受け継がれているのは、チャイコフスキーの音楽の質の高さによっているのかもしれません。バレエ作品にとっての音楽の重要性に、改めて気づかされます。

以上『眠れる森の美女』を通して、バレエ制作の過程を追ってみました。YouTubeサイトにはいくつかこの作品の全幕動画が上がっています。初演時は全編4時間半だったそうですが、現在は2時間強にまとめられているものが多いようです。

その中からベルリンを本拠とするStaatsballettの舞台を以下に紹介します。同バレエ団の違うヴァージョンもあるようですが、この動画では、シンプルな舞台装置が効果的で、ロマンチック・バレエながら衣装も現代的な工夫がなされていて美しく、ダンサーの質も高いと思われます。目を奪われたのは、悪の妖精カラボス役のRishat Yulbarisovというダンサー。男性ですが、女性の妖精を演じて異彩を放っています。パワフルで屈強な肉体に黒いドレスをまとい、どこかトランスジェンダーをイメージさせます。第1幕のカラボス登場の場面は、チャイコフスキーの音楽の迫力もあって見ものでした。

カラボス登場の場面(20:12のあたりから)

以下は全幕の動画。

*タイトル画像およびカラボスのシーン:the Staatsballett in Berlin "The Sleeping Beauty"より


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