湿地文学としての 『ザリガニの鳴くところ』 <湿地は、沼地とは違う>のか?
湿地文学というものがあるのか(多分ない)わからないけれど。。。。
この小説を手に取ったのは、文庫版発売直後の去年の12月末。タイトルは知っていたが内容は知らなかった。なんとなく新潮クレストブックスあたりの海外文学かなー、みたいなイメージでした。
本を手に取り(といってもKindleですが)ページを繰ると、小説の舞台になっている場所(ノースカロライナ州のとある村)の地図がまずあり、次に登場人物がずらりと紹介されます(こういう本を読むのは久しぶり!)。
本文に入ると(「プロローグ 1969年」と小見出しがあり)、1行目に:
うぁっ。。。 キターッ!
これがわたしの反応でした。まだこのときはサンプル版を読んでいたのですが、すぐに購入を決めました。
「湿地は、沼地とは違う」のか? ここ2、3年持ち続けていた個人的な疑問のど真ん中だったからです。
英語には、marsh、swamp、bog、wetland、fenなどなど、沼なのか湿地なのか実態が判別しにくい単語がたくさんあります。そしてわたしはそういう言葉があれやこれや次々出てくる長編小説(短編連作)を翻訳していました。
そして沸いた疑問:湿地とは何か、沼とは何か、泥炭地とはなにか……
『ザリガニ』の冒頭部分の原文(英語)はこうです。
おー。marsh=湿地、swamp=沼地。この本を訳した友廣純氏によるとこうなっていました。この冒頭の文につづいて、両者を説明する文がきます。
光溢れる湿地の片隅の、じめじめした木立の下にあるのが沼地、ということでしょうか。
悪臭を放ち、腐った土くれがたまる、死に満ちた泥の世界、それが沼地。
そしてその沼地で、チェイス・アンドルーズという村の青年の死体が発見されるわけです。死体があったという事実をより陰惨に、衝撃的に伝えるための状況設定、それが沼地なのでしょうか?
この小説は、アメリカでは2018年に出版され、ベストセラーになっていた本で、日本でも2020年に出版され、翌年本屋大賞1位(翻訳部門)に選ばれています。アマゾン・ジャパンのレビューは現在2000近く。またアメリカで2022年に映画化されてもいます。
この小説の著者はディーリア・オーエンズという動物学者。『ザリガニ』は69歳で書いたデビュー小説だそうです。興味深い履歴なので調べてみると、夫のマーク・オーエンズとともにボツワナのカラハリ砂漠で長期にわたってフィールドワークを行ない、その経験を夫との共著で『カラハリ―アフリカ最後の野生に暮らす』として出版しています。アマゾンの紹介文によると「現在はアイダホ州に住み、グリズリーやオオカミの保護、湿地の保全活動を行なっている」とあります。
ふむ。
わたしは葉っぱの坑夫の出版物として、これまで野生のオオカミやイルカの生態に関する本の翻訳、アメリカの沙漠地帯についてのネイチャー・エッセイなど翻訳してきたので、オーエンズという作家に興味と親近感をもちました。研究論文も発表している動物学者の小説ということで、『ザリガニ』では、湿地やそこに生きる植物や生物の描写が詳細で、愛をもって扱われています。ミステリー(謎解き)、恋愛の行く末という興味以外に、この点が小説の大きな特徴となっていると思われます。
『ザリガニ』の主人公、「湿地の少女」と呼ばれているカイアは、親に捨てられて(小さなときに両親も兄弟も家を出ていった)、学校にも行かず、一人貧しい小屋に残され暮らしてきた人物。村人から下げずまれ、友だちもいない、孤独な少女でした。この少女カイアが、のちに冒頭の村の青年を殺したのではないかと疑われます。
カイアという少女は、湿地を含めた自分の住んでいるまわりの自然環境に深い愛情をもっていて、その生態に詳しく、野生植物を収集したり、珍しい鳥の羽を保存したり、と日々フィールドワークをしています。そしてその詳細な記録に手描きの絵を添えたノートを、コツコツと書き溜めていました。長年の成果が湿地の研究として出版社に認められ、本を出版するところまでいきます。カイアは在野の研究者として生きる幸せを得たのです。
この主人公のキャラクターづくりは、動物学者である作者のディーリア・オーエンズの反映と見ていいのでしょうか。
著者のオーエンズは保全に関わるほど湿地に対する思いが強いようで、小説の中でも、舞台になっている湿地の歴史について詳しく語っています。
また湿地というのが、役立たずの不毛の土地ではない、という説明もしています。
こういった多様な生物の恩恵を受ければ、この地で人が飢えることはない、と。実際、主人公の少女カイアは、そのようにして生き延びてきたのです。
自分で食べる分だけでなく、集めた貝を地元の店に売りに行き、ガソリンなどの生活必需品と交換していました。ジャンピンというのは唯一の知り合いである店の人。ガソリンは湿地の中をボートで移動するための燃料。
湿地とそこに生きる植物、生物の描写は、この本のあらゆるところに散りばめられています。ゆえに湿地文学と名付けても、そう間違いではないでしょう。
さて湿地か沼地か、の話に戻ります。
他の言語から日本語への翻訳をするとき、こういった自然界に存在するものの名前で困ることがよくあります。それは地理条件や気候などの違いによって、地形や生育する植物、鳥類、昆虫類も含めた野生動物のあり方が変わるからです。また定義の仕方や名付けにも違いが見られます。
たとえば日本語では山といえば、それなりの高さのある隆起した地形を思い浮かべます。丘とか丘陵といった場合はどうかというと、山とはいえない低めの隆起した地形でしょうか。ちょっと国語辞典で調べてみます。
では丘は?
山も丘も、国土地理院では定義をしていないようです。
英語のmountain、hillを調べてみます。
hillはどうか。
山と丘に関しては、英語も日本語もそれほど違いがないようです。山は丘より大きい、または高い、というのがポイントで、それ以外には、丘にはない特徴として、山はごつごつしている、頂上に雪があることがある、など。
これは案外わかりやすかったですね。
画像検索したときのイメージとしては、hill/丘の場合は斜面がなだらかで、山は山脈を成していることが多く斜面の角度が急、といえるかもしれません。
湿地と沼(沼地)の場合はどうなのか。marsh、swamp、bog、wetland、fenは、日本語では分けて訳語を当てることが可能なのでしょうか。
言葉上の分類はこんな風で、訳語を正しく当てるのは難しそう。
実態としてはどうなのか。
National Park Serviceという英語サイトにそれぞれの説明があったので、それを見てみましょう。
翻訳すると「湿地は湿地」である、のような説明になってしまいます。なので原語のまま考えると、marshというのは草類が生息する水におおわれた土地。swampは樹木が生えていて水が満ちている土地。lowland forestはswampに似ているが水量は少なめ。ということでしょうか。
『ザリガニ』の冒頭の「水が草を育み」というmarsh(湿地)の説明、「じめじめした木立に覆い隠され」というswamp(沼地)の説明は、ナショナルパークの解説と合致します。
おそらく説明に出てくるwetlandというのは、特定の性質をもつ個別の「湿地」の呼び方ではなく、常時水に満たされている土地の総称かもしれません。日本語にするとこれも湿地(あるいは湿地帯)になってしまいます。
Wikipedia日本語版では、wetlandは「浅い水で断続的に覆われているか、土壌が水分で飽和している土地または地域」となっています。
写真で見比べるとよくわかります。が、日本語では湿地も沼地もこういった分類法では理解されていないように感じます。専門分野での用語を別にすれば、ですが。
日本語で沼あるいは沼地というと、「底なし沼」という言葉があるように、水底が泥で、ひとたび足を踏み入れるとズブズブと埋まってしまうようなイメージの場所。湿地の方は、、、あまりどこという、どんな場所というイメージが湧きません。霞ヶ浦とか? あそこは湿地なのでしょうか?
いや違いました。あれは湖のようです。
尾瀬の湿原(尾瀬ヶ原)や釧路湿原などが、日本の湿地帯に当たるようです。湿地と言わず、湿原と呼んでいるようですが。
湿地と湿原、調べてみると:
う〜ん。
「湿原」を英語辞書で調べると、bog、fen、swaleなどが訳語として出てきます。ちなみにbogを日本語にすると、沼地、湿地帯、湿原、湿地、(泥)沼などの訳語が出てきます。確かに湿原、は入ってますが。
で、bogの説明を先ほどのNational Park Serviceで見てみます。
こちらの説明だと、bogというのはwetlandの水の性質と水源によって分類されていると読めます。Wikipediaではどうか。
bogと湿原は、指しているものが違うのかもしれません。日本の学会と英語圏の学会と違う見解(定義や分類法)をもっているとも思えないので。。。
『ザリガニの鳴くところ』は映画版も見てみました。湿地や沼地を映像で確認しようと思ってのこと。ただこの映画の中の各シーンの描写にはいくつか疑問があったので、参考程度に。というのは主人公のカイアという少女のキャラクター設定(風貌や仕草、態度、着ているものや化粧など)が、原作で表しているものと大きく違っていると感じたから。映画はやはり、ラブストーリーでありミステリーである、ことが重要なのでしょう。
最後に:
わたしが湿地か沼かの訳語で悩みまくったのは、『トーマス・ニペルナーティ』という長編小説の中の「白夜」という章で、場所はエストニアです。エストニアは湿地の多い場所と聞いています。
「白夜」の中にこんな文章があります。
ちなみにこの中の湿地は「marsh」、湿地帯は「wetland」です。
「白夜」を始めとするこの小説の湿地関係の言葉が出てくる箇所をシラミ潰しに当たって修正しているのですが、ときどき???となります。このコンテクストだとこっちでいいんじゃない、といった。作者のガイリも、明確に(学説どおりの)定義づけによって、使い分けているわけじゃないかも、とという疑問です。
以下はエストニアのソノマ地方の湿地帯の写真です。
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