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IX. 『博物誌』

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著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・ゴデブスキー家
・『序奏とアレグロ』
・オランダへの旅
・ルヴァロワ=ペレへの引っ越し
・『博物誌』
・1900年代初頭の歌曲
・ラヴェルのオーケストレーション

 20世紀に入って間もなく、ラヴェルは若いポーランド人夫妻、イダとシパと知り合いになった。シパは小児麻痺の後遺症で足が悪かった。シパの両親は1831年にフランスにやって来たポーランド難民である。妻のイダは美しいというわけではなかったが、非常に魅力的な女性だった。夫婦の財産は限られたものだったが、ゴデブスキー夫妻は暖かな心の持ち主で、心から芸術を愛していたので、二人の住むアパートは当時の若いアーティストたちのたまり場になっていた。
 サン=ラザール駅に近い彼らのアパートの客間は、「アテネ通りのサロン」と呼ばれていた。部屋は狭く、天井も低く、15人以上が集まれば、何人かは床にすわるはめになった。とはいえ和気あいあいとした雰囲気や暖かなもてなしのせいで、物質的な貧しさは全く苦にならなかった。ラヴェルとリカルド・ビニェス、シパ・ゴデブスキーは同い年で、共通する考えをたくさん持っていた。シパはアパッシュのメンバーでもあり、この3人はアテネ通りのシパの家でよく会っていた。
 ラヴェルは友だち関係を多くもつ方ではなく、人と親しくなるまでに時間がかかった。しかしひとたび心を傾けると、誠実な気持ちや献身は変わることなく続いた。イダとシパはラヴェルの最も近しい友となった。パリ郊外に住むようになったあと、ラヴェルはゴデブスキー家の向かい側に部屋を借りたので、パリを訪れた際は彼らのアパートを訪ねたし、そこにはラヴェルの大好きな子どもたち、夫妻の子ども、ミミーとジャンがいた。

 ミシア(シパの姉)がアルフレッド・エドワール*と結婚し、1905年にヨット「エーメ」でのクルーズにラヴェルを招待した。当時ラヴェルは『序奏とアレグロ』(ハープ、弦楽四重奏、フルート、クラリネットの七重奏曲)に取り組んでおり、ハープ奏者のミシュリーヌ・カーンにこの作品の仕上がり時期を約束していたが、ヨットが出る日までに曲を仕上げることは不可能だとラヴェルは思っていた。しかし最後の最後に、ラヴェルは楽譜をもってエドワールのヨットに乗り込むことにした。
*アルフレッド・エドワール:フランスのジャーナリスト、出版界の有力者。1856〜1914年。

 楽譜を脇に抱え、ラヴェルはオーダーしてあった新しいシャツを取りに店に急いだ。このような大切な旅には、ワードローブに特別なものが必要、そうラヴェルは考えていた。そして大慌てで船に向かったのだが、ヨット「エーメ」はこの男抜きで出発してしまっていた。ラヴェルは意気消沈。しかし運良く、川を少し下ったソワソンでヨットに追いつけることがわかった。その途上、ラヴェルは大事なスコアをシャツの店に忘れてきたことに気づいた。そのシャツ屋はアマチュアの音楽家で、スコアを家に持ち帰ってしまい、それを返してくれるよう説得するのにだいぶ苦労した。しかしラヴェルは、翌日モーリス・ドラージュに手紙を書いているが、そのことには触れていない。ラヴェルはヨットの旅に熱狂した。「なんて楽しいんだ!」と手紙に書いた。ドラージュは「無頓着さと時間観念のなさ、それがこの天才に与えた問題は果てしない。ゴドブスキー夫妻はこの男が置き忘れた、たくさんのスコアを見つけようと奮闘した。ラヴェルはたいていのことでは、細かいことにこだわる人間なのに」 友人のドラージュはこの旅の間にラヴェルからもらった手紙を、次のように紹介している。

1905年6月24日
アムステルダムの港のドックにて。もう3日も足止めをくっていて、まだ行く予定の美術館には行ってない。見たいものはたくさんあるんだけれどね! 昨日、ハールレムに行ったよ。フランス・ハルス美術館は貴重だった。そこに行く途中、素晴らしい眺めを見たよ。風車に囲まれた湖があった。草原の向こう地平線のところまで風車が続いている。見渡すかぎり、どこを見ても回る羽根ばかりだ。このようなメカニックな風景を見ていると、自分もこの機械の一部になったように感じてしまう。
 ここまでのことで、特別なことは何も起きてないとは言えないよ。いろいろ収穫はあるからね。この旅でたくさんのことを体験するだろうと思っている。

 ラヴェルがオランダ旅行をしている間に、ラヴェル一家はパリ郊外のルヴァロワ=ペレに越していた。ここに父親のジョセフ・ラヴェルが、自動車と機械部品をつくる小さな工場を建てた。ジョセフは発明に今も関心があり、自動車の設計をこの頃していた。その車は驚くべきことに宙返りをしたのだ。「死の跳躍」と呼ばれるものだった。1903年にジョセフとラヴェルの弟エドワールはその発明を手に、アメリカに渡った。アメリカに着いた二人は、バーナム・アンド・ベイリー・サーカスでそれを披露した。「死の跳躍」は小さな車で行なわれた(ラヴェル親子に同行したフランス人がそれを運転した)。車は急斜面の走路を下って走り、宙に飛び出し、クルリと円を描き、また元の走路に降りて斜面の下まで走っていった。しかしこの発明は不幸な結果を招いた。ドライバーが命を失ったのだ。

 ルヴァロワ=ペレは産業の中心地で、荷馬車やトラックが途切れることなく音をたてて走っていた。モーリス・ラヴェルにとっては、仕事をするための平安が得られなかった。その一方で、そこはたった一つの橋によって、郊外の風景と隔てられているだけで、ラヴェルはよく草原を歩いたり、すぐ向かいの農場で家畜が歩きまわるのに目を止めたりした。家の窓から、農場の池を泳ぐ白鳥を眺めたり、立派な飾り羽を広げるクジャクが騒がしい声をたてるのを耳にした。
 動物の命が、ラヴェルに音楽を想起させた。この頃、ジュール・ルナールのクジャクやコオロギ、白鳥、カワセミ、ホロホロチョウについての詩を見つけ、それを無類の歌シリーズに仕立てた。このような音楽的とは言えない題材にとりつかれるのは、ラヴェル以外にはいない。乾いて辛らつなユーモアに溢れるルナールの詩は、ラヴェルの皮肉っぽい性格に訴えるものがあった。ラヴェルはルナールの詩を、辛辣なユーモアから優しさの極地まで、楽曲の中で巧みに操作して、非常に効果的で独自性のある解釈をしてみせた。この歌曲で、ラヴェルは伴奏を口語的な詩に見事にフィットさせた。詩の抑揚の一つひとつが、レチタティーヴォ(話すように歌う歌唱)の中で再現され、単調ではない表情豊かなものになっている。

 『博物誌』の第1曲目は厳粛で堂々としたクジャクだ。このクジャクは結婚しようとしているのだが、婚約者がやって来ない。甲高く執拗な鳴き声を、ラヴェルは伴奏の上行するグリッサンドで表現している。クジャクは羽(たくさんの目で重くなった立派な扇)を広げ、気取った歩きぶりで去っていく。

 「コオロギ」は繊細なオーケストラの効果による驚くべき作品。震える弦楽器が月の光に照らされた静かな光景を生み出す。散歩に疲れて帰って来たコオロギが住処を整え、懐中時計のネジを巻き上げる。(掃除は終わったのか、それとも時計が壊れている?) 最終的にコオロギは家に入り、ドアの小さな鍵穴に鍵を差し込む。コオロギは家の中で耳を澄ませる…何の音も聞こえない….

静かな草原では、ポプラが月を指さすように、天に伸び上がる。

ジュール・ルナール「コオロギ」

 次の歌では、白鳥が静かに水辺を泳いで、雲の陰を見ている。しかし白鳥は雲に興味があるわけではない……唐突な鋭く、急変する和音で、白鳥は池の底に突進する。そこで「くちばしを滋養のある土に突っ込むと、ガチョウのように太くなる」。「白鳥」は巧みにロマンチックな感傷へと向かう。

 「カワセミ」は歌集の中で最もメロディックな曲で、物悲しく哀調を帯びた鳥の鳴き声に包まれている。最後にくる「ホロホロチョウ」は、納屋に住む意地の悪い背の丸まった鳥で、そのせいでいつも誰かが自分を笑っていると思っている。ラヴェルはこの鳥の絵を描いている。音楽的には皮肉っぽさに満ち、甲高い声をあげる愚かなホロホロチョウとして描写されている。

 この鳥は意味なく戦闘的で、それはおそらく自分のからだの大きさと、はげた頭、そして尻尾の位置が変に低いことが笑われていると思っているから。
 そしてその金切り声はいつまでも続き、あたりの空気に突きささる。

ジュール・ルナール「ホロホロチョウ」

 ラヴェルは『博物誌』を仕上げると、詩人のルナールに曲を聞いてほしいと頼んだ。ルナールは1907年1月12日の日記にこう書いている。

 豊かな音楽性と几帳面さをもつ『博物誌』の作曲家、モーリス・ラヴェルが、今晩、彼のつくった曲を聴きに来てほしいと言った。わたしは音楽に無知なので、わたしの詩集に何を付け加えたかを尋ねた。
 「わたしのしたことは付け加えることじゃなくて、解釈することなんです」
 「でも、どうやって?」
 「あなたが言葉で言っていることを、たとえばあなたが木を描いたら、それを音楽で言うのです。わたしは音楽の中で考え、感じます。そしてあなたがしているのと同じように、考え、感じたいのです。本能的で感傷的な音楽があります。わたしの音楽です。もちろん最初に自分の仕事を知るべきであり、知性的な音楽は……」

ジュール・ルナール、1907年1月12日の日記より

 『博物誌』が1907年に初演されたとき、聴衆はラヴェルのこの歌曲の変わった作りのせいで、どう判断したものかわからなかった。最初、人々は楽しんで聴いていたものの、最後には憤慨した。「今夜は母音のシュワーを発音しなかった」とはこのときの歌い手ジャーヌ・バトリ。「たしかに変な感じがしたわね」
*訳注:正統的なフランス語の詩の朗読や歌曲では、通常の生活では発音しない母音のシュワー(ə)を発音する。『博物誌』では、ラヴェルは歌い手にたくさんの箇所でこのシュワーを発音しないように指導した。これにより初演は騒動を巻き起こした。無礼であるという人々と大衆的で良いという二つの派に分かれた。

 この作品で、ラヴェルは認められた音楽解釈から過激に旅立ち、それによって斬新さより伝統を重んじる人々を敵にまわした。とは言うものの、それは賢く効果的に行なわれた。批評家たちはあらゆる面からラヴェルを攻撃した。使用したテキストが、「不自然で非音楽的」であるといって、作品が非難された。ラロは「ハーモニーの密度をわざわざ薄くしている歌曲集(込み入って複雑なコードの連続)」と呼んだ。さらにあれはミュージックホールの音楽を思わせるとまで言った。

 しかし何人かの人は、この若い作曲家を擁護した。アンリ・ゲオンは「彼の特別な才能が音楽的ではない題材を音楽にしている」 ラヴェルが『博物誌』で、ドビュッシーの作品を盗用していると非難されたとき、激しい議論がさらに起きたが、これは最も不当な批判である。この作品ほどドビュッシーの様式から離れたものはない。論争は熱くなり、刺激された新聞各紙はこれを捉えて、第2の「ラヴェル事件」と言いたてた。

 ラヴェルはいつもそうしているように、この論争には加わらなかった。生涯の間ずっと、賞賛にも非難にも無関心で、この両者どちらからも逃れたいだけだった。一つ作品を終えるとすぐに、ラヴェルはそれを運にまかせ、新しい次の作品に心を傾けた。ラヴェルの唯一の関心は、音楽そのものであり、新たな様式の実験をすることだった。一つの様式に満足して留まることはなく、いつも新たなことに、違うやり方で取り組むことに熱意をもって挑戦した。解決すべき問題が複雑であればあるほど、それを歓迎し、より素晴らしい解決法を見つけるのだった。安易な方法を選ぶことはなかった。実際、ラヴェルの作品の多くには、技術的に困難なことが含まれており、演奏者がいかんなく能力を発揮できることを含んでいるようにも見えた。

 ラヴェルの作品数は、おそらく同じ立場にいる他の作曲家より少ないと思われ、数ではなく各作品の完成度に、より重要性があると思われる。ラヴェルはすべての箇所が細部に至るまで磨き上げられるまで、そしてあらゆる角度からの厳しい精査を終えるまで、作品を完成したと見なさなかった。

 ラヴェルの出版された歌曲(数にすれば40曲足らず)は、20世紀の最初の10年の間に作られている(『おもちゃのクリスマス』『シェヘラザード』『博物誌』を含め)。『花のマント』(1903年、詩:グラボレ)はのちにオーケストラ曲に編曲された。『外国からの強風』(1906年、詩:アンリ・ド・レニエ)、そして1907年には、『ハバネラ形式の小品』『草の上』(詩:ヴェルレーヌ)などがある。『草の上』で、ラヴェルは初めてジャズのリズムを思わせるフレーズを使用した。これは後の時代にラヴェルが興味を持ちつづけたものである。『草の上』は老神父がキプロスのワインを好き放題に飲むという歌。この歌は、メヌエット様式と超モダンなハーモニーが調和せずに衝突し、18世紀の上品さをパロディ化しているように見える。

このキプロスワインは申し分ない……
わたしは死ぬ、奥様お嬢様、もし
あなたがたに星を取ってあげられないなら
わたしが星になりましょう。こいぬ座に!
女性の羊飼いをひとり、またひとり
抱きしめようじゃないですか
紳士諸君、いいですか?
ド、ミ、ソ
ああ、お月さま、こんにちは!
(フランス語からの試訳)

Ce vin de Chypre est exquis . . .
Que je meure, Mesdames, si
Je ne vous décroche une étoile
Je voudrais être. petit chien!
Embrassons nos bergères, l’une
Après l’autre
Messieurs, eh bien?
Do, mi, sol,
Hé! bonsoir la lune!

 1908年、ラヴェルの友人、カルヴォコレッシがギリシアのよく知られた民謡5つに、ハーモニーをつけてくれないかと頼んできた。それはカルヴォコレッシがギリシアで集め、フランス語に自分で訳したもので、ソルボンヌ大学の授業でそれを使いたいということだった。そこにはギリシアの特徴と伝統がよく現れており、ラヴェルに興味を抱かせた。ラヴェルは古典的な詩の言葉と古代ギリシア文明の貴族的な異教性を気に入り、またギリシア悲劇における抑制的なものが、ラヴェル自身のもつ過剰さを嫌う態度と合致した。ギリシアから受ける刺激は、ラヴェルの作品の多くに見られる傾向だ。たとえば著名な『ダフニスとクロエ』など。しかしここでは、どの作品よりも、オリジナルの形式が完璧な形で作品に生かされている。
 ラヴェルは常に、音楽の可能性を押し広げようと努力してきた。民謡をテーマにすることは、ラヴェルにとって魅力があった。それは民謡には自然な表現があり、紋切り型の解釈にはめることを受けつけないからである。

 『5つのギリシア民謡』の1番目、「花嫁の歌」は陽気で活発な歌、つづく「向こうの教会へ」はゆっくりとしたテンポ、「私と比べられる伊達男は誰」では、歌い手と伴奏者の応答がある。「乳香を摘む女たちの歌」そして最後は踊るような繰り返しの「さあ愉快に」。そしてマルグリット・ババイアンの要求で、1909年に6番目の歌「トリパトス」が追加された。この歌は草稿の形で残されている。

↑ No.2「向こうの教会へ」 ↓ No.4「乳香を摘む女たちの歌」

 『5つのギリシア民謡』の成功によって、ラヴェルは1910年、「モスクワ歌曲の館」が支援する各国の民謡作品のコンテストに応募した。ラヴェルはフランス、イタリア、スペイン、スコットランド、フランドル、ロシア、ヘブライの7つの歌を書き、10ある賞のうち、フランス、イタリア、ヘブライ、スペインの4つを勝ち取った。
 ラヴェルの作曲による各曲は、ひとつひとつがその様式において全く違うものだった。常に同じことを繰り返すということがない。ラヴェルの歌曲は生き生きとして魅力的であり、ピアノ伴奏も素晴らしく独創的だったが、それ以上に大きな貢献は、オーケストレーションにおける傑出した才能だった。

 ラヴェルの作品を知る者はみんな、オーケストレーションの色彩豊かさに驚嘆する。「木々の1本1本に妖精が棲んでいる魔法の森」「すべての楽器が俳優となる劇場」と呼ばれてきた。
 ラヴェルにとってオーケストラは、機械の素晴らしい部品のようなものだった。ラヴェルはそれぞれの楽器やそのコンビネーションを研究、解析したが、それはちょうど機械仕掛けのおもちゃを分解して、その仕組みを確かめようとする行為と同じだった。それぞれの楽器の可能性を非常に深く探索し、木管楽器、ホルン、弦楽器、打楽器などの奏者に尋ね、どのような音の効果を生み出すことが可能か、正確に知ろうとした。その知識を得たことで、ラヴェルは他にない、驚くべき楽器のコンビネーションによる効果を手にした。
 ラヴェルは、すでにオーケストレーションのすべてが試されたかのような時期に登場した。世界はまだワーグナーによる広大な音楽のキャンバスを褒め称えていた。ロシア人作曲家は、その生き生きとした人を惹きつけずにはおかないオーケストレーションで、聴衆を魅了していた。ドビュッシーはその頃、印象主義を生み、ストラビンスキーは新たなダイナミックなハーモニーの実験をしていた。

 そんな中、ラヴェルのオーケストレーションはこういった者たちとは違っていた。それは完全に、疑う余地なくラヴェル自身のものだった。多くのことをロシア人作曲家から、同じフランスのベルリオーズ、シャブリエ、サン=サーンスから、さらにヨハン、リヒャルトの両シュトラウスから学んだとはいえ、これらのものとラヴェルの作品はまったく似ていなかった。それは豊かで(過剰に溢れ出るというものではないが)、生き生きと光り輝き、鋭利で、よく組織され、知性にあふれ、基本的にフランス的な抑制があった。

 確かに、先人の発見した様式を使いはしたが、ラヴェルの才能を通過したものは、まったく新しい彼独自のものへと変換された。ラヴェルは辛抱強く、絶えることのない努力をもって、1ページ1ページ、1節1節をものにしていった。仕上がったスコアは、奇跡の完璧さと明晰さをもち、非常に厳しい批評にも耐えうるものだった。
ジャン・マルノルドはこう書いている。

 ムッシュー・モーリス・ラヴェルは彼独自のオーケストラ言語を生み出した。繊細さの極地は、各楽器から無限の可能性を引き出すという簡潔なスタイルによるものに見える。この熟練による成果の基本には、適切で深い楽器への理解がある。

 ラヴェルは管弦楽的に思考し、この作業を何よりも楽しんで行なった。「作曲以上に楽しいことだ」と告白している。ピアノのために書かれた作品の多くを(『マ・メール・ロワ』『クープランの墓』など)、後にオーケストラ作品にしている。
 それに加えて、ラヴェルは他の作曲家の作品をオーケストレーションしている。
 ドビュッシー:『牧神の午後への前奏曲』、『サラバンド』『舞曲』
 サティ:『<星の息子>の前奏曲』(未出版)
 ショパン:『ノクターン』、『エチュード』、『ワルツ』(未出版)
 シューマン:『謝肉祭』(未出版)
 シャブリエ:『荘重なメヌエット』
 ムソルグスキー:『ホヴァンシチナ』(ストラビンスキーとの共作、未完)、『展覧会の絵』

 最もよく知られるラヴェルのオーケストレーションは、ムソルグスキーの『展覧会の絵』である。画家のハルトマンによる展覧会の絵を一つ一つ、鑑賞者が見て歩いているテーマ曲「プロムナード」は、生き生きとした輝かしい音の絵である。(訳注:原曲はピアノ曲)
 音楽評論家のヴィエルモズはこう言う。

これが編曲作品だと思う者はいないだろう。編曲者がこれはこっち、あれはあっちと選ぶ楽器は、それぞれの機能にぴたりと収まり、この音楽形態以外のところから生まれたとは想像し難い。『展覧会の絵』において、ラヴェルは編曲者であると同時に作曲者のようだ。

文芸誌『メルキュール・ド・フランス』1917年8月16日

 ラヴェルのオーケストレーションにおける手引きは、まずシャルル=マリー・ヴィドールによる近代オーケストラ技術であり、次にサン=サーンスの協奏曲、そしてリヒャルト・シュトラウスの交響詩である。ラヴェルはピアノでオーケストラの編曲を行ない、ピアノとデスクの間を常に行ったり来たりした。このような方法でしか、様々な楽器を分離して聴くことができない、とラヴェルは力説していた。

 ドビュッシーのオーケストレーションとラヴェルのそれには、似たところがほとんどない。ドビュッシーのものは優しく、絹のように柔らかで、靄(もや)がかかっている。一方ラヴェルのものはもっと活力がありリズムに満ちている。ドビュッシーの作品を振る指揮者は、特別な感受性が求められ、演奏家は気分によって、それぞれ曲を解釈する方法を見つける。しかしラヴェルの音楽を解釈する方法は一つしかない。とくに『ボレロ』においてこれは真実だ。ラヴェルは解釈するチャンスを与えない。あらゆる指示は楽譜に書き込まれている。そこに何か付け加えたり、音を差し引いたりすることは不可能。「敬意をもって注意深く演奏する」ことのみが求められる。

 しかしドビュッシー、ラヴェルの両者は、ワーグナーやドイツ音楽派の重いオーケストレーションに対して、明白な反発を示している。「ワーグナーはあまりに多くの楽器を効果なく無駄に使っている」とラヴェルは言い、自分のオーケストレーションは、ドビュッシーと同様、各楽器に自由を与え、それぞれに明確な場所を提示し、聴く者の耳に届くよう努力している。ドビュッシーとラヴェルは共に、「まばゆいばかりの壮麗なフランス様式……無限に小さな存在の神秘とともに、壮大な喚起をも勝ちとることができるほど、充分なしなかやかさをもっている」(エミール・ヴュイエルモーズ『オーケストラの様式』より)

 


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