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中学受験を諦め、母子でマレーシアへ移住 - 私が「比べる病」を手放せた日 -

2023年1月、私は小学5年生の息子とマレーシアに移住しました。

きっかけは息子の、「ぼく、受験をやめたい」というひと言。

自転車の後ろに乗る息子の細い声を聞いたとき、私は息子の心配より、
「今までかけてきた時間とお金どうすんねん!」
と考えていました。

2歳から塾に通い、二人三脚で頑張ってきた受験。
私は、それ以上弱気な言葉を聞きたくなくて、「ふーん」としか答えられなかったことを覚えています。

ところが私たちがマレーシアへ渡ったのは、息子が「受験をやめたい」と言ってからわずか4カ月後。多くの人に「たった4カ月で!」「どういう心境の変化?」と驚かれます。

私自身、海外へ行くことなんて想像もしていませんでした。

マレーシアに移住してから1年。多くの方から教育移住についての相談を受けるようになりました。

このnoteでは、「こうあるべき」に縛られていた自分の過去や、教育移住を決めるまでの葛藤をお伝えできればと思います。

・ 子どもとの関わり方に悩んでいる方
・ 子どもの中学受験について悩んでいる方
・ 自分が教育虐待をしてしまっているのではないかと悩んでいる方
・ 教育移住に関心のある方
・ 教育にかかる費用について悩んでいる方

このような悩みや関心をお持ちの方にとって、選択肢が広がるきっかけになればうれしいです。




男社会の中で「女のくせに」と向き合った
新社会人時代


私は大阪府で生まれ育ちました。幼い頃を思い返すと、勉強は好きではなく、どちらかと言えば活発で友達と騒ぐのが好きな子どもでした。

大学まで進学したのは、母から「学歴や手に職を身につけなさい」と常々言われていた影響が大きいです。母は成績優秀なのに「女だから」と大学に進学できなかったそうで、それが心残りだったのだと思います。

大学卒業後は、大手お酒メーカーに就職しました。大学で管理栄養士の資格をとったので、配属を希望したのは研究開発。でも配属されたのは、なぜか営業部でした。

大阪支社の社員80人のうち、女性の営業は私と同期の2名だけ。

いわゆる「男社会」で、パワハラやセクハラが横行していました。客先に行っても相手にされないことは日常茶飯事です。

「女のくせに生意気」「生理のあるやつはあかん!」などと言われることも。

「その場で泣いたら負けや」と気丈に振る舞い、帰り道、公園のベンチでひとり涙を流しました。

私は、遅刻や欠勤は「ありえない」と考えていた社会性の強いタイプ。もちろん「辞める」という選択肢もありませんでした。何より同僚や上司のことは好きでしたし、営業の仕事にやりがいを感じていたんです。

社内初の女性総合職として、社内の女性たちと男性社員たちの間に立って仕事がスムーズに進むよう仲立ちの役割も引き受けました。

「女だから」と舐められないよう私は誰よりも強くいなければと、気を張って働いていたと思います。


結婚と退職、定まらないキャリア...
そして新たな可能性への挑戦


結婚退職が決まったのは、入社してから7年が経った頃でした。辞めたくなかったけれど、夫はライバル会社に勤務していて、情報漏洩などの観点からどちらかがやめざるを得ない状況に。話し合いの結果、私が辞めることになりました。

夫が転勤族なので、私も仕事を転々としました。銀行でパートをしたり、確定拠出年金のパイオニアの会社や、日本初の「来店型保険ショップ」の本社で働いたり。取締役として年収850万円のときも、パートで時給900円のときもありました。

上場企業の役職を手放して、知り合いとふたりで出資し、起業したこともあります。9割の人から反対された転職。私は、安定した収入より「挑戦する人」や「新たな可能性」に惹かれるのだと気づきました。

起業に挑戦できた理由が、実はもう一つあります。投資で増やした「資産」があったことです。ある程度のお金があったから、失敗に臆さず挑戦できたのだと思います。

投資を始めたのは大学3年生。家庭教師とコンパニオンのバイトで貯めた50万円を元手に株を買ったんです。

きっかけは、当時の彼との付き合いを母に大反対されたことでした。駆け落ちするつもりで、「ふたりで1000万貯めよう!」と投資をスタート。

社会人になってからも手取り16万円のうち10万円を、金利7%の社内預金へ。結局彼とは別れてしまいましたが、コツコツとへそくり投資を続けました。

27歳で1000万円、40歳で5000万円、48歳で1億円が貯まりました。

もちろん成功だけではありません。FXに手を出し、800万円の損失を出したこともあります。

調剤薬局に勤めていたときのことでした。白衣のポケットで鳴り響く損切りメール(損失が出ている金融商品の売却を促す通知)のバイブ音に、冷や汗があふれたことを今でも覚えています。

この経験からFXは勧めることができませんが、「お金を銀行に預けておく」のではなく、「お金に働いてもらう」ことは大切だと考えています。


不妊治療を経て、
大きくなりすぎた息子への期待


調剤薬局で管理栄養士としてパート勤務しているとき、不妊治療を始めました。当時、38歳です。

不妊治療をするために、正社員ではなく短時間勤務できるパートを選びました。

それまで、どちらかというと子どもが好きではなく、このままずっと夫とふたりで暮らすのもいいな、と仕事に邁進していました。しかし年齢を重ねるうちに、やはり子どもがほしいと感じるようになったのです。

注射が苦手な私にとって、月に一度の採卵はとても苦痛でした。一度の採卵で50万円かかることも負担です。4年間の不妊治療で、700万円を費やしました。

不妊治療している人のブログを読み漁っては、「この年齢だからあかんのや」「なんでもっと早く不妊治療を始めなかったんやろう」と、どんどん気持ちが落ちていったのを覚えています。

ベビーカーを押している家族を見るだけで「自慢か!?」と怒りが湧いてくるほど、心は荒んでいました。

不妊治療中は、大好きだったお酒も飲めません。義父や実父の介護と重なったこともあり、今振り返っても、とてもしんどい時期でした。

息子を授かったと知ったときはもちろん嬉しかったけれど、全力では喜べませんでした。

無事産めるかもわからないし、健康に産まれてくるとも限らない。

神頼みなんか今まで一度もしたことないのに、神社に通っては「なんでもしますから、どうか無事に...」と、お願いしました。

息子が無事に生まれたときの喜びは、言葉にできないほどでした。

あれだけ働くのが好きだった私ですが、生活は一気に子育て中心に。

長い不妊治療期間を経て、ようやく会えた大事な息子だからこそ
「子どもにはできるだけいい人生を歩んでほしい」
と、仕事に向けていたエネルギーを子どもに注ぐようになりました。

妊娠中から読み始めた子育て本は、800冊以上。「子育てはこうあるべき」「子どもにはよい教育を与えるべき」などの情報で頭はいっぱいです。その結果、息子に過度な期待を押し付けてしまったと感じます。今思えば、教育虐待にも近い状態でした。


生後7か月から始めた英才教育


自分がこれまで出会ってきた成功者たちは、いわゆる「高学歴」の人が多かったんです。

「勉強も運動もできる、あんな人になってほしい」というロールモデルが周りにいたので、自分の子どもにも必要な教育を与えてあげなければと思いました。

生後7か月から、幼児教室や水泳、体操、リトミックへ。幼稚園受験に向け、2歳から塾に通わせました。家ではモーツァルトを聞かせていたし、日々の食事にも気を遣っていました。

私自身も「東大生を育てた母親」のセミナーを受講したり、20カ所以上の幼稚園を見学したりと、情報収集に奔走しました。

仕事では、良い結果を出すために努力するのが当たり前でした。それと同じように、子どもに最高の教育環境を与えることが親として当たり前だと思っていたんです。

努力の甲斐あって、息子は第一志望の幼稚園に合格。そこは、高校までエスカレーター式に進学できる幼稚園でした。

ところがその年の2月、急に夫の東京転勤が決まりました。すでに入学金を支払っていたし、制服も購入済み。何より、膨大な時間とお金をかけてやっと合格した幼稚園です。

本音を言えば、私は息子と兵庫県に残るから、夫には単身赴任してほしかった。

でも息子は、お父さんのことが大好きで。

3歳の息子と父親を引き離す選択がどうしてもできず、さんざん悩んだ末に東京にいくことを決めました。


息子と他の子を比べてしまう
「比べる病」のはじまり


辞令がでた1カ月後に、バタバタと引っ越し。結局、都内で家の近所の公立幼稚園に通うことになりました。

いい友達もママ友もでき、環境も悪くありませんでしたが、私はどうしても諦められず、国立幼稚園の受験に向けて動き始めました。

これまで積み上げてきたことを無駄にしたくなかったんです。

いざ本番。息子は面接と行動観察はクリアしましたが、結果は補欠合格。合格者を決めるくじ引きを夫が引き、落ちてしまいました。「私が引けばよかった!」と、後悔しました。

そのまま公立幼稚園に通いながら、今度は小学校受験に向けて勉強を開始。

志望した国立小学校の倍率は、なんと60倍です。結果は不合格でした。

国立がダメなら、せめて評判の良い公立小学校に通わせたい。その思いから、同じ区内で引っ越しをしました。とにかく必死に、息子にとって最良の環境を探し続けていたんです。

このときを振り返ると、私は完全に「比べる病」でした

「周りの子は1分でこの問題が解けるのに、なんであんたは5分もかかるの!?」

周囲の子と比べては、イライラして息子にあたってしまう。

1日にプリント100枚を課して、息子が泣きながらやっているような日もありました。

私が息子に対してヒートアップしすぎていると、息抜きをさせてくれたのが夫でした。

空気を察して息子を連れ出しては、公園でサッカーしたり、近所の区民プールに行ったり、お風呂屋さんへ行ったり。お風呂屋さん巡りは、男同士の楽しみになっていたようです。

週末はいつも、キャンプや釣り、山登り、カヌー、スキー、気球乗り、ホエウェールウオッチングなどの自然体験を計画してくれました。

「モノより体験を大事にしたい」という共通の価値観を持った夫がいてくれたことは、息子と私にとって、救いだったと思います。


家族3人でキャンプ。河口湖で早朝カヌー



息子に起きた異変

息子の通う幼稚園で

息子が5歳のころ。電車に乗っていると、急に「あっあっ」と大きな声を出しました。

ふざけているのかと思い「静かにしなさい!」と怒ったのですが、指摘すると症状が悪化します。息子の様子を見て、わざと声を出しているわけではないということにすぐ気がつきました。

息子はチック症でした。

チック症とは、自分の意識とは無関係にまばたきや首振り、咳払いや奇声などが繰り返し出てしまう疾患です。

チック症について調べると、原因は解明されていないものの、緊張や不安、ストレスが誘引となると書いてありました。いじめや不登校に繋がるケースもあると知り、不安は大きくなるばかりです。

「息子の幸せを思ってやっていたことが、息子を追い込んでいたのかもしれない」

私の中に葛藤が生まれました。しかしその時は、それでも受験を諦められなかったのです。

周囲の目が気になって、「すみません、すみません」と言いながら電車を一駅ずつ降りたり、人目を避けながら移動したり。

「うるさいな」「なんで注意しないんだ」そう周りから責められているようで、隠れるように過ごした日々を忘れません。

いくつもの病院に通い、やっと症状がおさまったのは3年後でした。


受験目前で「やめたい」と言う息子、
訪れた人生の転機


中学受験を1年半後に控えた、小学校5年生の9月。息子が言いました。

「受験をやめたい」

息子が受験に乗り気じゃないことは気が付いていましたが、「やめたい」と口にしたのは初めてです。

「これまで費やした時間とお金、どうすんねん」と思う一方で、「受験はもう無理かもしれないな」と諦めかけている自分がいました。せっかく治ったチック症が、また再発しかけていたからです。

息子は塾に行かなくなりました。

「あんた、これからどうすんの?」

私が聞くと、「公文で英語を習いたい」と言います。

「いまさら英語習ってどうすんねん」というのが私の本音でしたが、息子は次の日から公文に通い始めました。

これから、どうしていけばいいんだろう──。

頭を悩ませていた時に、私が投資しているスタートアップの社長と話す機会がありました。

社長が、「シンガポールに移住する」と言うんです。

「移住?なんでシンガポールに?」

海外に行く選択をした理由が気になり、2時間以上のヒアリングをさせてもらいました。

すると、事業との親和性のほか、幼いころからよく海外旅行をしていたこと、大学時代に海外で起業した経験があること、母親像、父親像など、自身のルーツを教えてくれました。

そして社長はこう言いました。

「幼少期に海外へ行ってたことで視野が広がった。それが今に繋がっているのかも」

この言葉に私はときめきました。なによりタイミングがぴったりだったのかもしれません。

同時に、視野が狭くなっていた自分に気づいたんです。

社会人として働いていた時の自分は、「チャレンジ」や「自己決定」を大切にしてきました。それなのに子どもには、正反対のことを強いてしまった。「これが当たり前だから」とレールを敷き、本人の意見を聞かずに「競争」ばかりを与えていたんです。

“息子には立派な人になってほしい”
“そのためには高学歴でなければならない”

「こうあるべき」に囚われていた自分に気がついた瞬間でした。


海外への教育移住という新しい選択肢

マレーシアにある世界第2位の超高層ビル「ムルデカ118」

新たに生まれた、「海外のインターナショナルスクール」という選択肢。

夫に相談すると賛成し、「行くなら1日でも早い方がいい」と言いました。

夫と息子と私、3人で話しました。

「マレーシアの学校、どう?」
「英語ができたら、世界中に友達ができていいよね」

私たちが言うと、息子が口を開きました。

「知らない場所に行ってみたいから、マレーシアの学校に行きたい。食べたことがない美味しいご飯を食べてみたい!」

英語の不安はあまり感じておらず、なんとかなると思っている様子でした。コロナ以前に行ったシンガポール旅行で、「海外は楽しい」というイメージがあったのかもしれません。

夫は「できれば自分も一緒に、3人で行きたい」と言いました。

「でも、もしマレーシアでうまくいかなかったら?」

「そうだね、もしものときのために、逃げ場を日本に残しておこう。
 息子が学校生活に慣れるまでは様子をみよう」

夫婦で話し合って、まずは私と息子、ふたりで行くことを決めました。


「ダメだったら日本に帰ればいい」


前述の通り私は、神頼みもしなければ占いも信じないタイプ。それなのに、このときばかりは政治家ご用達の高名な占い師のもとへ何度も足を運びました。

決して占いを信じていたわけではありません。ただ、背中を押してほしかったんです。「息子さんは海外向きですね」と言われて、ほっとしたことを覚えています。

でも結局、出発するその日まで、この決断が本当に正しいのか自信が持てませんでした。

小学校を卒業させないまま、海外に行っていいのか。
母親の自分だって英語ができないのに、生活はできるんだろうか。
海外に行って、息子のチック症が再発したらどうしよう。

あらゆるリスクを考えては、「オンラインでかかれる病院を探して、事前に事情を説明しておこう」などと一つひとつ対策を練り、自分を安心させました。

そして最後はこう考えたんです。

「ダメだったら日本に帰ればいい」


しっくりきた「マレーシア」

クアラルンプールにあるペトロナスツインタワーと、はためくマレーシアの国旗

教育移住に向け、大使館に行ったりオンラインイベントに参加したりしながら、徹底的に情報収集をしました。

当初見ていたのは、カナダやマルタ、ドバイ、フィリピンなどの国々。いいなぁと思ったカナダのバンクーバーは、学費が高いだけではなく、住居費の負担も大きい。1LDKで30万円超えの相場を見て、現実的ではないと諦めました。

金銭面や治安、気候の問題から、しっくりきたのがマレーシア。

マレーシアにはインターナショナルスクールが180校以上あり、レベルもさまざまです。慣れない英語の募集要項を読みながら、息子の英語力に合うスクールを必死に探す日々。英語力アップのため、日本人が少ないスクールを選びました。

受験勉強期間は、わずか2カ月。合格通知(正式なオファーレター)を見たときは、安堵しました。

マレーシアの新学期に合わせ、向こうに飛んだのは2023年1月。息子が「受験をやめたい」と言ってからわずか4カ月後のことでした。現地を一度も下見せず、住む家も決めないまま、スーツケースを4つ持って飛行機に乗り込んだのです。

一般的には、インターナショナルスクール入学に向け、何年もの準備期間を設けます。なぜ私が、たった4カ月というスピード感で決断できたのか。一番の理由はやっぱり「お金」です。

以前、社外メンターや相談業務にあたっているとき「お金があったら〇〇できるのに」と悩む女性を数千人と見てきました。

私自身、このへそくりがなければ、教育移住をこのスピードで決断することはできなかったと考えています。

お金は、自由になるために、選択肢をひとつでも多く持つために、大切な要素です。

子どもの未来や教育について相談を受けるとき、私は自分の投資の知識と経験も合わせて伝えるようにしています。


トラブル続きのマレーシア生活がスタート

なぜか水槽にがいこつがいるマレーシアの水族館

2023年1月、夫を日本に残し、マレーシアに渡った私たち。クアラルンプール空港についたその瞬間から、泣きたいことの連続でした。

当たり前ですが会話や表記が英語で、どっちに進んだら良いかすらわからない状態。その上、入国審査で止められることに。いろんな場所にたらい回しにされ、気づけば3時間も経っていました。

予約していたホテルに向かうにも、タクシー乗り場がわからない。行き先を伝える術もない。タクシーを呼ぶアプリもうまく使えず、「神様、お願い。無事にホテルへ連れて行ってください」と、また神頼みです。

翻訳アプリを駆使してホテルには無事行けましたが、次の日には息子を学校に送り出さなくてはいけません。

息子は日本で、徒歩30秒の小学校に通っていました。それが明日から、異国の地で50分バスに揺られることになる。

不安は尽きず、停留所の場所を確認したり、酔い止めを300錠用意したりする私の横で、「お母さん、テンパってんなあ」と、息子が冷静だったことを覚えています。

息子が無事に学校へ行ったのを確認し、私は家探しを開始しました。いつまでもホテル暮らしをするわけにはいかないので、なるべく早く家を見つけたい。

しかし契約書類もすべて英語ですから、ジェスチャーと翻訳アプリだけでやりとりするのは本当に大変でした。

難航していた家探しですが、ある日、知り合いから日本人の不動産屋を紹介してもらえることに。心から「助かった!」と思いました。

マレーシアに来て1カ月。築年数は古いですが、息子が希望した「広くて緑が見える家」への引っ越しがやっと決まりました。 

マレーシアの郊外にあるダブルツリーbyヒルトンホテル・プトラジャヤ


息子の得意げな笑顔、
そして「比べる病」からの解放

仲良しの日本人家族の帰国前。3家族で集まり夜中まで遊び、語り合った

生活が落ち着き「マレーシアにきて良かった」と思えたのは、半年が経ったころ。

ある日、知人に教えてもらったお肉屋さんに、息子と行きました。

指をさしながら、しゃぶしゃぶ用のお肉を500グラム注文。すると店員さんから、早口でなにかを質問されました。

私が聞き取れず戸惑っていると、息子が英語で
「多くてもOK。他は要らない」
と代わりに答えてくれたんです。

帰り道をふたりで歩きながら、
「お肉が買えて良かった。あなたが居てくれて助かったよ。ありがとう!」
と伝えると、息子はうれしそうに、得意げに笑って、手を繋いできました。

半年前は私より英語ができなかった息子。今では「お母さん、発音が変だよ」「お母さんも、もっと英語勉強せなあかんやん」などと指摘されます。その声が心地よくて、頼もしいなぁとうれしくなるんです。

息子は、「クラスメイトとしゃべりたい」という思いから、「聞く力」だけでなく「話す力」もついたと言っています。日本人は息子ひとり。言葉が通じない環境で、友達をつくれたことが自信になったようです。

また、日本では成績が悪かった算数も、マレーシアでは「すごい!こんなに算数ができるなんて」と言われるんです。

いろいろな国の人が入り混じり、多様な価値観があるインターナショナルスクールでは、比較の基準がありません。

気づけば、息子と私自身を長年苦しめていた「比べる病」はなくなっていました。

息子と2人で


「今見えている選択肢だけが
世界のすべてではない」


子どもの受験で悩む人のなかには、教育移住に希望を持ち「海外に行けば何かが変わるかも」と考える人も多いのではないでしょうか。

ところが実際は、理想と現実のギャップに苦悩する人がいることも事実です。

大事なのは、教育移住をすることではなく、今目の前の状況から一歩飛び出してみること。そして、自分の選択を「正解」にするために、努力を積み重ねていくことなのだと思います。

だから、教育移住を「最後の希望」とは捉えないでほしいのです。教育移住はあくまで、選択肢のひとつに過ぎません。

ただ、受験に囚われ周りが見えなくなっていた私が、教育移住で救われたことは確かです。息子の気持ちを無視して、あのまま受験を続けていたら、親子関係は破綻していたでしょう。

昔の私のように悩んでいる人に「今見えている選択肢だけがすべてではない」と伝えられたら。そう思い、このnoteを書いています。

人生を切り拓いていけるのも、自分の選択を「正解」にできるのも自分だけ。

息子には、失敗を恐れずに挑戦し、自分で幸せをつかむ人になってほしい。

今ではそう考えています。

#これからの家族のかたち
#受験体験記




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