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コンスタンチノープル(現、イスタンブール)の戦いというロマン

冬の厳しい寒さも和らいできた?気もしますが、まだまだ風もあってなんだかなぁという感じですね。
今日は、私の好きなオスマン帝国についてのお話です。
オスマン帝国といえば、多くの魅力を持つ大帝国ですが、中でも戦争史においてはロマンあるものがいくつもあります。
その中でも、ローマの帝冠を1000年以上も守ってきたビザンツ帝国を滅ぼした際の戦いについて少しお話しようと思います。
ローマ帝国といえば、みなさんも何となく「あぁ、そんなでかい国があったなぁ」と思われると思います。ビザンツ帝国は、ローマ帝国が東西に分裂した際の東側の国です。395年頃の分裂からビザンツ帝国長きに渡り、ゲルマン人やペルシア人等の諸民族と争います。しかし、オスマン帝国との最後の決戦があった1453年には、年号の暗記で、「いいよゴミだしビザンツ帝国」と言われるほどの弱小国家となっていました。しかしながら、ビザンツ帝国は曲がりなりにもローマ帝国の正当な後継国家であり、キリスト教の分派である東方正教会の総主教座が置かれるコンスタンチノープルを首都とする国家であり、その権威は衰えていませんでした。加えて、コンスタンチノープルは堅牢な都市として知られ、東を海に守られ、西はテオドシウスの壁を代表とする3つの壁に守られていました。(地図とか見ると楽しいです)
一方オスマン帝国は、これに対し青銅を用いたウルバン砲と呼ばれる初期大砲を開発することで攻略しようとしますが、(材料が青銅ですから)堅牢な城壁を崩すことは出来ず攻めあぐねていました。
また、オスマン帝国皇帝メフメト二世は、1度目の即位でやらかしていた事やコンスタンチノープル攻略の際は22歳という若年であったため、家臣からの評価はイマイチであり、早期攻略をしなければ自身の権威が崩れてしまうという懸念から実はピンチな立場でありました。
そこで、メフメト二世は海上の支配による敵軍の士気低下を狙い海上封鎖を試みるわけですが、ビザンツ帝国側はコンスタンチノープル脇にある金角湾と呼ばれる地域を巨大な鉄鎖で封鎖していたため、侵入が困難となっていました。(更に言えば、当時オスマン帝国は海軍運用の経験が浅かったため、ビザンツ帝国を支援していたジェノバ共和国による海上輸送を食い止めることに失敗するなどしていました)
ここで、メフメト二世が考えた奇策が「艦隊の山越え」になります。(こちらも地図を見ていただければと思いますが)彼は金角湾の北側の陸地に目をつけて、軍船を陸上輸送することで、鉄鎖を攻略したのです。ある意味、それまで陸戦を中心としていたオスマン帝国だからこそ思いついた奇策だったのでしょう。
この策により、コンスタンチノープルはジェノバ共和国からの支援を失い、オスマン帝国はビザンツ帝国側の士気を大きく低下させることに成功しました。
この後、オスマン帝国側による大規模攻勢が行われたことにより、コンスタンチノープルは落城し、ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世(名前からして、ビザンツ帝国の長さが分かりますね)もその戦火の中で行方知れずとなります。いかに堅牢な城壁があろうとも、兵士の士気がない状態では飾りに過ぎない訳ですね。
以上が、コンスタンチノープルの戦いになります。
ちなみに、コンスタンチノープルは落城後数時間の略奪を受け、名前もイスタンブールと改められますが、メフメト二世によりイスラームとの融合が成されたことで、ビザンツ帝国時代以上に繁栄を遂げることとなり、現在に至るまで国際的な都市として残り続けています。今も一部テオドシウス城壁が残っていたりと大変魅力的な都市となっています。
私も、公務員試験が終わったら見に行きたいと思っています。飛んでイスタンブール!!
本日もだいぶ長くなりましたがお読みいただきありがとうございました。また、機会があれば見に来てくださいね。


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