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愛された日々

私は、母が子癇の発作を起こして早産で産まれた。
当時の事情を知る由もないが、私は母の姉夫婦に育てられた。
夫婦に子供はおらず、伯母は看護師でもあり、一命をとりとめた母はその後ずっと体調が悪いままで、そんな妹と未熟児で産まれ落ちた姪の世話を引き受けた歳月を思うと、どれほどの無償の愛と献身で命を繋いでくれたのか胸が詰まるのである。

伯父は3.11の大震災が起きた夜、心臓発作を起こし5日後に亡くなった。
翌年秋、伯母はストーブにかけていた薬缶の湯を躓いた拍子に浴び、右の耳から顔、腕、肘に2度から3度の熱傷の身となり入院、皮膚移植などの経過を辿るごとに老耄し、退院後は老人介護施設に世話になり、2年前に亡くなった。

私が育った伯父伯母の屋敷は築100年を超える武家屋敷で、庭も広く、そこが朽ちるのを待つばかりのように残された。
片付けに通うことを繰り返し、それは心が折れるだけの日々だった。
茶の間には作り付けの大きな戸棚があった。
その一角には、写真好きだった伯父が撮った折々の写真が仕舞われていた。
遠い記憶の中に、一枚の写真が蘇った。

あの写真はあるだろうか。

私の写真を納めてくれていたアルバムは無くなっていた。
処分したのだろうか・・・。
沢山出てくるスナップ写真が目に入るたび、手が止まる。
時間も止まる。
思い出が煮詰まっていく。
生き生きと、沢山の人、風景がそこにある。

一番奥に。
「幼児期~少女期」
という表書きの袋があった。取り出すと、私が出てきた。私という人間を私が知るための、大切な証拠が沢山沢山出てきた。写真だけ見たら、他人には親子にしか見えないだろう。

秋の午後。
柔らかい陽が射す三畳間。
ヤクルトを嬉しそうに飲む幼い私。
穏やかに見つめる伯母の優しい横顔。
そして、伯母と私とふたりを見つめてシャッターを押してくれた伯父。

幸せな時間がくれる強さは、彼らが遠くへ行ってしまっても、彼らと過ごした家屋敷がもうなくなってしまった今も、しっかりと私を形成してくれている。



伯母と私と伯父のまなざし






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