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長距離遠足

オリンピックなどフル・マラソンの距離は42.195km。それを走破するのだから驚いてしまうけれど、同時に、「フン、僕の高校はもっと凄かったもんね」と変な対抗心を燃やす自分が必ずいます。なにしろ、僕たちのは48キロでしたから。


■1年の時

記憶の中のルートは北高出発 → 市内を南下 → 南が丘を抜け元紋別に入った所で右折して山道に入る → 山を二つ越えて上渚滑に出る → 北上して中渚滑を抜け → 渚滑に入って南下して → 北高に戻る

記憶の中のルート。正確なルートを覚えている人がいたら、是非教えてください。

高校1年で初めて長距離遠足に臨んだ時は、真面目に完走目指して走り出した。しかし、15キロを過ぎた頃から激しくペースが落ち、約20キロ地点で完全に足が動かなくなりました。そこは山を二つほど越える入り口地点です。つった足を引きずりつつ、その後は、歩いたり走ったりを繰り返してゴールしましたが、この時のタイムが5時間39分


■2年の時

2年では雪辱を果たさんと走り出したが、やはり同じ20キロ地点で足が動かなくなった。それで、自分がどうにかこうにか走り続けられるのは20キロが限界と認識するようになりました。それでも、僅かながらタイム更新出来て5時間26分。これが自己最高記録となった。自己評価は「よくやりましたね」。

昭和42年(1967年)


■3年の時

3年の時は「長距離遠足だよねー」と仲間たちと念を押しつつ、関門ギリギリ突破を目指して歩きました。ある者はギターを抱え、ある者はお弁当にお茶、敷物まで抱えて、歌ったりしながら歩きました。関門で待ち構えていた先生たちは呆れ顔で笑っていました。これはこれで楽しかったですが、一抹のむなしさが残りました。タイムは8時間50分

因みに、
・規定時間内に関門を通過しなければ車で送り返される。関門は確か2か所だったと思う。
・1,2年の時は塩を持って走った。当時は汗で失われた塩分を補給するという考えがあった。
・トップは大体陸上部で、3時間以内に帰っていたので、すごいと感心していた。

何はともあれ、このような経験があるので、フルマラソンの42.195キロと聞くと、いつも(タイムを完全無視した上で)「フン」と、なぜか張り合うせこい自分が未だに棲み着いています。それでも、長距離遠足は人生の自信となりました。高校時代の良い思い出です。


■余談1.東日本大震災で

余談になりますが、「その自信」は東日本大震災の時にすかさず持ち上がりました。地震発生時、足立区北千住の会社で働いていたのですが、外に飛び出すと電柱がグラグラ動いていました。「早く帰宅しなければ!」と会社を出たものの、あらゆる交通機関がストップしています。

妻と連絡を取ると、日暮里の母親が心配と言うので、まずは日暮里迄歩きました。義母の無事を確かめてから所沢を目指して再び歩き始めましたが、だんだん足が言うことを聞かなくなり、「こりゃ、道端で寝るしかないな」と思っていた矢先、幸いにも、電車が一部再開したため帰宅することが出来ました。

このときの歩いた距離が約23キロで、ここでも20キロあたりの限界がありました。歩くだけなら48キロ行けると思っていたのに、記憶の中の体力は当てにならないことを実感。


■余談2.床屋さんに完敗

これも余談ですが、先日、床屋の親父さんと学生時代の体育祭の話をしていたら、やはり、長距離の行事があったと教えくれました。私は心の中で「こっちは48キロだよ」と密かに思いつつ話の続きを聞いていると、さりげなく「え~と、100キロでしたよ」と!!

「えええー!高校で100キロ!?」と驚ろくと、淡々と「いや~、中学でしたよ」と。

「親父さん、完全に負けました」と敗北を認めると、隣で、親父さんの奥さんが「どうして男は勝ち負けなのかしらね」と笑っていました。(笑)

あなたの学生時代にも長距離の行事がありましたか?


(まさき)

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