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ホーム新聞

ここに昭和35年3月24日に発行された新聞がある。

高校で新聞部に所属した一番上の姉が、「家庭新聞」も発行したいと考えたのだろう。記憶では確か、この画期的な発案の他にも、「月一回、家族全員の話し合いもしよう」ということになり、親父も参加した。しかし、新聞も話し合いも一回きりで、その後続かなかったと思う。この「ホーム新聞」は、僕が社会人になって随分してから、編集部長の姉がコピーして送ってくれたものだ。

姉は学業成績が良かったので、僕が高校に入ると、「君はあれの弟か? 姉さんは勉強良くできたのになー」と残念そうに漏らした先生がいた(笑)。仕方のないことだ。この「ホーム新聞」で4年生に向けて抱負を語っている僕は、こんなレベルだったのだから。

1.朝早く起きてはをみがく
 → 4年にもなろうというのに、歯磨きがまだ習慣になっていなかった(汗)。

2.下きゅう生のめんどうをめる。
 → 「下級生」と漢字で書けなかった。

3.1時間でもいいからべんきょうする。
 → 全く勉強していなかった証拠。しかも「勉強」の漢字が書けていない(涙)。

ガリ版印刷


一面に取り上げられた山本勝次さんの失踪事件。彼はその後どうなったのだろう?

3面には両親の記事もある。原稿を書くのは時間が掛かる作業なので、両親が寄稿しているのは興味深い。母は自分を表現できる機会に、喜んで書いたのではないかと思っている。そこには、故郷青森を出たときの様子、そして父と知り合ったことが書かれている。母の小さな歴史のひとコマを「ふるさと…紋別」に残したい。

  ◇  ◇  ◇

■幸せ■

 ジャランジャランとドラの音がして ボートに気が鳴り、船は静かに 青森の港を離れて行きました。さような らと向こうの岸辺に叫びました。それは、私が北海道に発って来る夕暮でした。お友だち二人に私は声を限りに叫んだのです。その時船の人が来て「もう皆さんお休みですから静かにして下さいませんか」と優しくたしなめられました。それが私の幸せを乗せた第一歩だったのです。

 私は二十二才。何を見 ても嬉しい楽しい時でした。目的地は鴻之舞でした。船は津軽海峡を乗り越えて、函館に向って行きます。船の中は北海道に働きに行く人で一杯で、畠のイモのように、三等船の船底にごろごろしていました。異郷空に向うなどとは夢にも考えておりませんでしたので、朝もやに包まれた函館の山々が見えて来た時は、只、釈迦の国のようにみつめたものでした。私は津軽の女故ついお国なまりが出て、座席にいる人は不思議そうに私を見つめていましたが、「君は内地の人?」と思わず聞 かれて、若い身空の私は赤面したりしました。

 今思うと丸瀬布の駅に着いた時、労務の小林さんという方が迎えに来てくれて「長い道のりごくろうさん」と云ってくれました。見るも聞くのも凡て楽しかった。ところが、三カ月で故郷へ帰る筈の私が、北海道に嫁ぐ事になり、毎日不安と希望に心をせきたてられました。それが現在のお父さんでした。当時は、お父さんのやり方に随分心の中で反抗しながらも絶対服従で、自分を不幸だと思ってきました。不幸と不満の入りまじった年月でした。次々と生れた四人の子も病気ばかりして、幸せを持った事は一度もなかったけれど、私の今日此頃は何やら皆も素直になり、お父さんも静かな人にな ってくれて、今が一番幸せな時と思っております。この上は尚一そう勉強に心を打ち込み、もっと素直な性格を持ってもらえば、一層私は、世界の幸せ者と思います。(神元干代)

  ◇  ◇  ◇

(まこと)


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