片目やられた!
(2)手術
札幌での入院は約1カ月近くあった。
手術は入院直後だったか、少ししてからだったかは思い出せないが、毎日のように採血があった。僕の腕は細くて血管が良く出ないため、温めで浮き上がらせようとしたりして、看護婦さんは苦労していた。
医者は、水晶体を取ることになるから、光は入るが像は結ばなくなると告げた。(記憶が正しければ)見えるようにするには、犬の目の水晶体を入れる方法があるが、白黒でしか見えなくなる、と言うような話もしていた気がする。
手術時間がどのくらい掛かったか覚えてはいないが、短くはなかった筈。手術室から出てきたとき、医者が母に向かって「よく頑張りましたよ」と告げた。母も僕に「よく頑張ったね」と言ってくれたが、「僕は寝ていただけど…」と思ったが「うん」と返事した。
摘出されたトゲは爪楊枝の先ほどの大きさだったと先生も驚いていた。母は何度も何度も先生に頭を下げてお礼を述べた。
かくして僕の片目の生活が始まった。退院してからも、しばらく眼帯をしていた気がする。学校の視力検査では、「見えません」「見えません」と繰り返しながら前に進み、結局「右目1m、0.1」と記載された。大きなトゲが刺さった黒目の部分には、その後ずーっと白い跡が残っていた。
入院中、母は病院から借りた布団を、僕のベッド横の床に敷いて寝泊まりした。一月近く大変だったと思うが、疲れて僕に当たると言うようなことはなかった。むしろ、笑顔があった。大きくなってから、この時の母の苦労を考えると、申し訳ない気持ちで一杯になった。
二度と心配させてはいけないと思った、と思うが、生来の少々腕白な気質に加え、片目で距離感をなくしたため、その後も目にまつわる怪我をした。
紋別に帰る前、札幌のデパートに行った。紋別の百貨店の何十倍も大きかった。何を買ったか、何も買わなかったか、それも覚えていないが、その時初めてエスカレーターなるものに乗った。
馬鹿な自分を嘆く
70歳を過ぎてからのある日、ふと、僕の入院中、誰が家の炊事や洗濯をしていたの ―― との思いが湧き上がった。家には父と二人の姉、そして兄。どう考えても、7つ上の長女しかいない…。
ああ、なんて僕は考えの及ばない馬鹿だったんだ! お母さんに迷惑を掛けた事ばかり考えて生きてきたが、家では、まだ中学生のお姉ちゃんがお母さんに代わって家事をしてくれていたんだ!
この年になってそれに気付いたとき、何度も何度も「お姉ちゃんごめんなさい」と、涙が滝のように零れた。
(まこと)
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