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私が出来上がるまで(人生が好転していく)40

私が人生を好転してきたのは大学へ進学したことからだと思っています。
高校に行った時に、これからは最低でも大学か短大は出ていないと、社会では見てくれないと感じていました。
学歴社会を感じ取っていました。
なので、どんなことをしても最低限の学歴が欲しかったのです。
なので、希望の社会福祉学科ではなかったのですが、英文科へ行くことにしました。

京都の学校です。
私の家から4回も乗り換えて、片道3時間ほどかかります。
寮に入りたいと母に頼みましたが、猛反対。
学費は奨学金を借りていたのですが、いくらかは母が足していたと思います。
交通費も学割とはいえかなりかかります。
交通費は全て私のアルバイトで賄いました。
寮費まではバイトでは私には無理です。
母はお金を出したくないだけではなかったと思います。
寂しいのです。
私は母に対してはいつもキツく当たって仲良くないのですが、兄がああいう風なので頼るのは私しかいなかったのです。
母が私を離したくなかったのを感じ取っていました。

なので、寮はあきらめて、往復6時間かけて通いました。

小さい頃から母は洋服は無駄だと思っていてあまり買ってもらった記憶がないのです。
正月前とか、何かの行事前に仕方なしに一枚二枚買うくらいです。
大きめの洋服を買ってもらい何年か着ていた記憶があります。
なので、大学に通うには洋服も自分で稼いで買わねばなりません。
バイトはすぐに始めました。

大阪梅田を経由するので、ちょうどうちと学校の真ん中にあたる梅田でよくアルバイトをしました。
高校時代の親友T子とは別の大学へ進んでます。
彼女は幼稚園の先生目指していたので、幼児教育科へ進みました。
なので、梅田で一緒にアルバイトしようと言うことになりました。
そこで、ビアガーデンのチケット売りのアルバイトをすることになったのです。

飲み屋さんは母が許さない可能性があります。
しかし、このバイトは飲食してる場所には出ず、人が入れないように鍵もかかっているボックスの中に入っているので安全なのです。
そして仕事内容はチケットを売るだけではなく、計算をそろばんでします。
そろばんは一級を持っていました。
得意です。
時給もその当時にしては高かったのでもってこいでした。

他にも英語の家庭教師や、単発のバイトもプラスして、二重三重にしました。
なんと言ってもこの梅田でのバイトで喫茶店のバイトもしたのですが、泉の広場辺りで私の人生の幸運の第一歩がスタートしたような気がします。

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