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友達くらいは 気軽に立ち寄れる牧場作りの始まり

 キツい 汚い 臭いの3K職業と呼ばれた酪農業
蓋を開けてみれば、加えて 
危険 そして、臭いからこっちに来るな!
の 5Kだった!
 バブルの全盛期で 友達はみんなきらびやかな世界を満喫していた その時代に 私は小学校の教師になれきれない講師勤務を続けていた。そして夫と知り合い結婚した。
 教員生活にピリオドを打って 見知らぬ世界に飛び込んでしまった。そこは毎日牛舎に通う酪農家の世界だった。おそらく飼養していた乳牛は70頭弱くらいだったと記憶している。

 昔ながらの繋ぎ牛舎で 700Kg近い牛が お尻合わせに20頭ずつ 右と左に並んでいる。牛舎の両端が餌場になっていて 飼槽として手前から奥までずっと半円掘られた溝が作られていて ところどころ水色のタイルが剥がれたままにされている。2cm角ほどのタイルをびっしりと貼られていたはずで、建てた頃は水色に光って綺麗でピカピカのツルツルの飼槽だったのだなと 推測する。

 その飼槽に乾いた牧草や市内のお豆腐屋さんから頂いてくるおから、配合飼料、自ら畑を耕して作るサイレージ など順番に丁寧に 牛たちに与えていく。水を飲ませる時間になると、さっきまでの餌を箒で片付けて 飼槽の1番手前に付いている蛇口を捻ってあげる。そうすると井戸水が流れ出て 牛たちはジュルジュルて音を立てて飲み始める。
手前から奥まで 水が流れていくように 何度か分からないが わずかに飼槽を傾けてあるのだ。
愛情持って、良く考えて 牛舎を建てたんだなと感心する一方、1番奥の牛は、いったい何時に水を口にできるだろう。手前の牛が、やっと喉が潤って 飲むのをやめた。

 なかなか水が流れてこない牛は 結構辛抱強く黙って流れてくるのを待つのだけど これが餌の場合は違う。餌の桶やワゴンが見えると ご飯だご飯だと モウ モウと 良く鳴いて催促する。この時間が1番騒ぐ。特に子牛小屋は餌やミルクの時間が遅れると良く鳴くし、いつももらっている人の姿を見ただけで喜んで鳴く。この時ばかりは母心になって新米酪農家にとっても可愛いなあと 思う。

さて、

 牛たちがご飯を食べている時間に搾乳をするのだけれど、その前にお尻の下にある大量の糞出しを終わらせなければ、搾乳機は運ばれない。
 その時代 一般的な繋ぎ牛舎には、バーンクリーナーと呼ばれるベルトコンベアが取り入れられていて、糞かきでベルトゴンベアまで集めれば、それが動いて ダンプまで流れていくのだが、嫁ぎ先にはそれが無かった。

 いやでも 手を使ってスコップで腰高まである運搬車に積まなければならない。

 母牛40頭分の生糞を スコップで運搬車に積み上げいっぱいにして、糞乾施設まで2往復。おまけに子牛30頭分は一輪車で運び出す。臭いが身体に染み付くし、生のものだって飛んできたりする。母牛の長いしっぽがハエを追い払う為にビシビシと動かされるからだ。こんな姿は友達に見せられない。

 時代はバブルの全盛期

 軽いカルチャーショック 

牛たちは大きな目で睨んでくるし(睨んでないけど その当時の私にはそう感じられた)子牛は可愛いけれど 毎日のエンドレスの作業に 可愛いなどと言ってる場合じゃない。

 大量の生糞を片付けた後 搾乳し始める。大きな身体の牛と牛の間にしゃがみ込んで、後ろ足に蹴られそうになりながら 4本の乳頭に機械を装着する。その前に温かいタオルで綺麗に乳頭を拭いてからだ。
 牛たちは、気持ち良さそうに反芻をしながら搾られている。この時間は、機械の動く音がまるで心臓の動きの音かのように 一定のリズムで流れている。2時間程かかった記憶がある。

搾乳が終わり 最後に干草を牛たちの口元に存分にあげて 今夜の作業は終了する。

結婚して間もないある日の夕方

電話がなった。電話に出ると10代の頃 良く一緒に過ごした懐かしい友人の声だった。
私は嫁ぎ先の職業を伝えきれていない。
まさか 牛とこんな生活をしているなんて、言えなかった。それなのに、

モウ〜! っ鳴かれてしまった。

その後は何を話したのか 覚えていない。

友達くらいには胸張って 気軽に呼べる牧場にしたい。

この気持ちが 始まりの始まりなのだ。なんて不謹慎だ。

不謹慎だけど、そこから、何も無かった緑の草原
それこそが私たちのキャンパスとなって 毎年のように一筆一筆 自分たちの手で描きあげて行くことになったのだ。

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