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合理的利他主義の功罪

はじめに

ボランティアや寄付、子育て支援、環境保護活動などの慈善活動は「利他」的行動だと賛美される。

映画やドラマ、アニメにおいても、主人公がヒロインのために体を張って危険を冒すシーンは感動的だと見なされるだろう。

一方で「利己」という言葉は否定的文脈で用いられることが多く、特に日本においては滅私奉公が美徳とされるため、利他の対をなす概念としてしばしば嫌煙される。

利他=善、利己=悪という図式が現代社会では見受けられるが、果たして利他と利己は相互排他的な概念なのだろうか。

つまり完全に利他的な人は存在するのだろうか。
純粋な利他心のみで人間は動機づけられるのだろうか。

本稿では先行研究を踏まえながら利他的行動のメカニズムや利他と利己の関係性について私見を述べる。


人間の利己的性質

1.脳科学

人間の利己性は脳科学の見地から説明される。

人間の行動の動機づけには人間の中枢神経系に存在する神経伝達物質であるドーパミンが密接に関連しており、モチベーションだけでなく、多くの生命活動、特に感情や意欲、思考などの心的機能と大きく関与している。

ドーパミンが活性化することで快感や多幸感をもたらすのは、他の誰でもない自身の脳であり、自身の快楽や多幸感の追求の末に利他的行動を起こす人間がいるのだ。

米セントラルフロリダ大学のソーン博士らの研究では利他的な(行動を取る)人は困っている人の感情や感覚を受け取って共感し、その人を助けることで脳の報酬系が活性化することを明らかにしている。

例えば電車で他人に席を譲ったときに「ありがとうございます。」と感謝の言葉を貰えると気分が良くなるが、それは人を助ける行為がドーパミンを活性化させ、快感を呼び起こすというメカニズムが働くからである。

つまり利他的行動は脳の報酬系を活性化させ、自身を喜ばせるために発生するものである。


2.進化心理学

進化論を提唱した生物学者のダーウィンは種のために個体が存在し、個体のために遺伝子が存在するとしたが、イギリスの動物行動学者であるリチャード・ドーキンスは著書「利己的な遺伝子」にて遺伝子のために個体が存在し、個体が自身の遺伝子を残すために利他行動を取ることがあると結論づけた。

本書によると遺伝子は生物という”乗り物”を乗り捨てながら自分のコピーを増やしていくことを至上の目的としているため、利己性は人間を含めた動物に組み込まれたプログラムと言える。

生物の行動は個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子に規定されているが、種として繫栄するにはまず個体として生存することが必要となる

生物は成長とともに生存の可能性が担保されてくると、種として繁栄していくことに視点が広がり自身や他人を含む家族や社会、国を最適化していこうとする

親の子供に対する無償の愛も、恋人同士の愛の誓いも最終的には自分の遺伝子を後世に残すための行為を美談にしたものである。

芥川龍之介の名言「恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。」にも納得がいく。

合理的利他主義の功罪

以上より人間は生来利己的な生き物であり、利他性は利己性の延長線上にあると言えるだろう。

人間は他者の手助けをすることで、めぐりめぐって自分に利益がもたらされることが進化の過程で定着した。
故に間接的に自分の利益となる利他的行動を無意識的に選択するのである。

これを合理的利他主義と言う。

世間では慈善活動や自己犠牲的な優しさは利他的だと持て囃されるが、これらの行為も結局は自分のために他ならない。

金銭や物資といった有形の見返りは求めなくとも、「相手に好かれたい」という承認欲求や「『優しい自分』でいたい。」という自己実現欲求(理想の自己像を実現したいという欲求)に起因するものであり、実質的には自身が恩恵に授かることを最終目的としているのだ。

(マズローの欲求段階説においても5つの欲求全てが利己的欲求であり、彼が晩年に考案した「自己超越欲求」は自己実現欲求が満たされることで生じる、「他者のために喜んでもらいたい、社会をより良いものにしたい」といった自分のエゴを超えて他者や社会のことを想う第六階層目の欲求であるが、他者のために喜んでもらいたいのも、社会貢献をして自己満足感を得たいのも自分であり究極的には利己的欲求と言える。)

私は本稿を通じて人間の利己性や利他的行動の名目性について述べてきたが、目的は人間の利他的行動を批判することにはない。

むしろ利他的行動は讃えられるべきものであると思う。それがたとえ利己的な動機であっても他者や社会の利益になっていることには変わらないのだから。

相手の利益と自身の効用を両立させるのは社会的動物ならではの知恵でもあると思う。
私はそれ自体が悪いものだとは思わない。

問題は利己性への無自覚欺瞞、利他の押しつけである。
すなわち自分のためにも関わらず、「他人のため」という偽りの大義名分を掲げたり自身の価値基準を絶対視し、それが相手にとっても良いことだと思い込んでしまうことだ。

「本当はこんなこと言いたくないんだけど、あなたのために言ってあげるけどさ。」といった発言や自分の主張を架空の被害者に代弁させて正当化する論法が前者の典型例だろう。

また利他的行動には「これをすれば相手の利になるだろう。」という主体の推論が含まれている。推論というのはあくまで思い込みであって実際に相手がどう思っているかはわからない。

自身の利己性に無自覚な人は知らず知らずのうちに「これをしてあげるのだから相手は喜ぶべきだ。」と相手の価値観を自身の価値観と同質化し、相手を支配しようとする危険性を孕んでいる。

自分を利己的な人間の1人であることを自覚した上で、利他的行動が必ずしも相手のためにならないことを自戒することが脱中心化に資すると考える。




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