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才能のせい

「才能は努力でカバーできる」
「天才とは99%の努力と1%のひらめきである」

努力信仰や努力至上主義が主流だ。

しかし才能のせいにしてしまえば納得出来る。

努力した人が1番成果を出すなら、Xにおいて世界一ポストした人間が世界一いいねをされている。そして世界一演奏が上手いバンドも、世界一人気のハズだ。
この《才能》という言葉は、非常に曖昧だ。

売れる=努力 という訳でもなければ、売れる=才能 という訳でもない。

売れるかどうかは運だ。

いくら努力しても演奏の伸び代は限度があるし、演奏力の才能は運に勝てない。

そう言うと「努力の方向性が間違っている」とアドバイスされる。

何かを実現する為に努力をする。もちろん《正しい努力》をする。

「テストでいい点を取りたい」→勉強をする→正しい勉強をする必要がある→確実に正しく勉強するためには塾へ行く必要がある……。
↑この《塾》という選択肢は確実に正しい努力だろう。しかしこの選択肢が取れない人間がいる。《貧乏》《近くに塾がない》といった事情だ。こうなると自己流で勉強することになっていくが、努力の正しい方向性がブレやすくなる。
アドバイスとしては「友達や先生に聞けばいいじゃん」という類いのものがある。

近くの塾に通えている人間や、お金を持っていて家庭教師などを付けれている人間とのハンデは埋められないが、マシにはなるだろう。

結果、勉強しないよりはいい点が取れた。しかしやはり自己流なので、プロの指導を受けている同級生には勝てない。
自己完結の目標は達成しやすいが、相対評価や席が限られている目標において、努力環境の違いが差を埋められない要素になる。

そして何より地頭が悪いと自己流はおろかプロの指導、つまり正しい努力をしてもテストの点数が伸びないという事態も発生しかねない。

目標は達成できる可能性があるにしても、頭打ちする地点が、他の環境に恵まれた人間より早く来やすい

そこに早く気付かないと、人生が背伸びばかりで辛くなる。

才能や環境のせい、運のせいにした方が苦労しなくて楽になるし、嫉妬もしなくなる

努力しなくてもすんなりできる人はいるし、いくら努力したとしても一向に上達が見られない人もいる。

地頭が悪い、才能が無い…。

自分が原因だけど、悪いわけではない。
そんな自責なんだか他責なんだか分からない思考で楽になる。

そして頭角を現している人は、努力をしたのではなく、才能があったから。

ただそれだけ。

というのも僕がこんなにも才能信仰に考えが振れたのは、とある男性ゲーム配信者を見たからだった。
その男性はスプラトゥーンというゲームの世界王者なのだが、バイオハザード4のクリア最速記録も持っている程ゲームが上手いのだ。
なんのゲームをやっても上手い。
格ゲー、アクションゲー、FPS…。
初めて触るゲームも、システムや操作方法をスポンジのように吸収して、すぐ上手くなる。よーいドンのゲームで頭角を現すので、どう考えてもこれは生まれつきの才能だろう。

最近ではストリートファイター6においてもJPというキャラクターでキャラクター別ランキングで2位になったという天才だ。本当にゲームの神から寵愛を受けていると言っても過言ではないくらいの成績だ。ちなみにプロゲーマーからも一目置かれている。

何をやっても頭角を現しそうな学習能力だ。

…しかしこの男性ゲーマー、苦手なことや評価されていないことがある。

まず音痴。スマッシュブラザーズという任天堂の対戦パーティーゲームに出てくるアイテムに、ゴールデンハンマーという物がある。
そのゴールデンハンマーの音を再現できないのだ。

音痴すぎて脳梗塞を疑われるほどだ。
練習してできるようになったとしても、時間を置くとまた音痴になる。
音楽の授業では、真面目に歌っているのに先生が笑っていたらしい。通知表の評価は2。

これも生まれつきの才能(笑)だろう。

そしてホラーゲームが苦手なのだ。能力的にはクリアできるのだろうが、恐怖耐性が無いのだろう。

いちばん驚いたのは、本人のYouTubeチャンネルが能力に見合った伸び方をしていないということだ。
まあ、能力を数字に置き換えるのは難しいが、ゲームIQというものがあるならば日本でもトップクラスだろう。

しかしYouTubeチャンネルの登録者数は十数万人。僕は50万以上行っても良いと思っているのだが…。
《釈迦》という配信者は登録者数が80万人を超えている。しかしゲームセンスという基準では、その天才ゲーマーの方が上だろうと思う。
そして再生回数は10万回に届かないくらいの動画が多い。時期にもよるが、釈迦氏の方が再生回数が10万回を超えている動画が多いように感じる。

いくら才能があって、様々なプラットフォームを使い発信するという形で努力をしても、評価されるかどうかは他者依存なのだ。つまり運で、自分の努力ではどうにも出来なのである。

この男を見てから、「生まれ持った能力で人生決まるな」と、考えが変わった。
それまでは努力で何とかなるのではないかと希望を持っていたが、その希望は完全に絶たれた。
僕たちがゲームで上手くなるということは、この男が音痴を直すくらい大変なのだろう。

「評価はどうにも出来ないけど、能力は努力に比例するからどうにかできるだろ」
という意見をする人は、努力してその天才ゲーマーに勝って欲しい。

よくよく考えてみると、上を見るからそういう努力信仰をしがちだが、自分より能力が無い人を見た時に「これは努力ではどうにもならないな…」と感じてしまうことは多いことに気付く。

知的障害者なんかはそうだ。言語野の能力が低く、コミュニケーションが苦手で、話す速度も遅い知的障害者は、努力で何とかできそうだとは思わないだろう。そして事実、生まれつき言語能力が劣っている知的障害は還暦を迎えても、成長さえすれど人並みに話せない事が多いだろう。

普段は目につかないし、なんなら僕たちが目を逸らしている。

努力至上主義を信じ続けるために、都合の悪い真実からは目を逸らしているのだ。

努力信仰を否定するということは、自分たちの今までしてきた努力を否定することになるのだから。
そしてそもそも同じ人間だと思っていない可能性もある。結局他人事だから、どうでもいいのだろう。

紛争地域で生まれた孤児たちも、先天的な病を持った人間も、事故にあった人間も、努力を信仰している人達からすれば、総じて努力不足などの自己責任なのだろう。

不幸になるのは自業自得。
それ相応の因果応報。

このバイアスを公正世界仮説と呼ぶが、恵まれている人や人生が上手くいっている人は、このバイアスが強くかかっている。

エリートなどはそうだろう。
「人生に運の要素は無い。僕は100%自分の努力でここまで来た。結果が出ないのはお前らの努力が足りないからだ」

ものすごく嫌なやつだが、本人は本当に努力はしている。しかし事実が認識できておらず、バイアスがかかっている。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
というような主観なのだ。

人間は台所に発生するハエと変わらない。発生することに意味は無いし、潰せば簡単に死ぬ。

人間はどうしても認知する際にスピリチュアルのような、ファンタジーのような解釈を引っ付ける癖がある。宗教がいい例だ。
何かを信じたいのだ。それが崩れると何を信じていいか分からなくなるから。

日本は努力信仰と自己責任論が強い国だと思われがちだが、アメリカの方が強い。
自己責任論が強いかどうかは社会保障制度を見れば分かる。アメリカは日本ほど社会保障が充実していない。
自由な分、それだけ責任が伴っているのだろう🗽

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