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好きだと思い込む

よく《周りが好きだと言ってるから自分も好き》と思うことがあった。

誰でもあると思う。

しかし僕はこれで大失敗した。

漫画家を目指した。

しかし諦めた。

というか最初から諦めていたと言っていいかもしれない。

好きではなかったからだ。

好きだと思い込みたかっただけ。「好きだと思わなければならない」という強迫観念に近い。

「自分は絵が好きなんだ」という自己暗示

「絵が好きでなくてはならない」

自分がやっていることを評価価値や存在理由などといった、いわゆるアイデンティティにし始めると危険。

絵を描くのが好きな人は一定数いるが、全員ではないし、そもそも真に楽しんでいる人は、承認欲求やアイデンティティにするために描いてる訳ではない。承認欲求やアイデンティティはついでだ。
僕のような勘違いアイデンティティ野郎は、先に承認欲求や評価価値、存在理由、役割観念が来ているため、順序がおかしいのだ。

最初に来るのは純粋な没頭欲でないと健全ではない。

自己強迫催眠

僕は絵を描くのが好き…だと思い込んでいた。

《言い聞かせていた》というのが正しい。
自己催眠というか、自己洗脳というか…平凡恐怖から、どのみち自分の精神を強制的に順応させようとしていた。

そうでないと自分に存在価値や存在理由、役割を果たすことも出来なくなる。

言い聞かせている自分が思う《楽しい》感覚と、本当に心の底から楽しんでいる人が抱く《楽しい》感覚は違うらしい。

相対的な好み

違う例え…好きな食べ物や性趣向だろうか。

周りの人はピーマンが好きだと言ってガツガツ食べている。
しかし自分は全く美味しいとは思わない。
大嫌いならまだ分かりやすいが、微妙な感覚。
食べすぎるとギブアップするが、ひとつふたつ食べる分には好きでもないし嫌いでもない。
そんなものを、人は自分の好きなものだと勘違いするのかもしれない。

僕で言うところのタコだ。
寿司をあまり知らない時、タコの味だけを知っていた。その後、イクラやマグロの味を知るようになって、自分にとってタコはあまり好きではない事に気付いた。

食べ物に関しては色々な物を食べることで相対的な好き嫌いに気付いた。
マグロやイクラを食べることがなければ、ずっとタコが好きだと思い込んでいた。

食べ物の好き嫌いは自分基準で相対的なものなので、好きだというのも間違いではなかったのだが、これは趣味にも言えるだろう。

それ以上に面白いことを知らない状態。
僕は人生の早い段階で、ゲームという楽しい娯楽を見つけた。しかしまだ出会っていないだけで、自分にとって、相対的により面白いと思える娯楽がこの世界に存在しているかもしれない。

性趣向もそうで、周りが同姓好きであれば、自分も同姓が好きだと思い込んだり、現状選択肢がひとりしかない場合、「自分にはこの人がベスト」と思うかもしれない。しかしそれは思い込んでいるだけ。

ただ生まれた

この理屈だと生まれた国や巡り会えた人にも同じことが言えるだろう。

僕たちは自分で日本を選んで生まれてきた訳ではない。
だけど日本が一番自分に合っていると思う。
でもそれは日本以外の国を知らないから。そして過ごしている期間が長いから、日本が一番好きだと思っている。

仮に言葉が同じで、かつ気楽に住居込で行き来できるなら、日本より自分にあった国を見つけられると思う。

おなじ理屈で親友もそう。
「この人しかいない!」
と思っても、別の場所に行けば、相対的にもっと相性の良い人が確実にいる。
「この人は唯一無二の親友!」
は幻想だ。

失敗の原因

コンコルド心理

それに費やしている時間が長い場合でも好きだと錯覚する。

僕は《嫌い》が多い時に向き合い過ぎて、嫌いなことに気付けた。

自分の心の底から登ってくるアレルギーといっても過言でないくらいの感情が執着を上回った。

唯一無二感

錯覚であり幻想だ。
ただ視野狭窄しているだけ。

解決策としては色々な価値観と物事に触れることだ。

ひとつの物事や意見に触れると、思想が偏り視野が狭くなる。SNSを見てても分かるだろう。エコーチェンバー、フィルターバブルだ。

洗脳が解けた

平凡恐怖を手放せば、自動的に洗脳は解ける。

しかしいきなり手放すと、反動で燃え尽き症候群のようになるため、徐々に手放していく。気付いた時には足るを知れている。

他の例

今のVTuberやYouTuber、声優なども平凡恐怖から、本当は好きではないものを好きだと思い込んでいる可能性がある。
ゆえにVTuberは休養がとても多い。本当の自分の欲求とズレたことをしているので、いつまで経っても満たされないのだ。

平凡恐怖を徐々に手放した時、本当に自分が好きなものと出会えるハズだ。

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