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ニューロダイバーシティ実現は不可能

いつから出てきたのかは分からないが、《ニューロダイバーシティ》という価値観がある。

ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)とは、神経や脳の違いによる「個性」として発達障害を捉える考え方です。日本語では「脳の多様性」や「神経多様性」とも訳されます。
ニューロダイバーシティは、神経学を表す「ニューロロジカル」と多様性を表す「ダイバーシティ」が合わさってできた言葉です。神経学的差異を認識し、多様性として尊重すべきという考え方を指します。
ニューロダイバーシティは、障害分野を中心として、特に自閉スペクトラム症の人の権利擁護の流れで世界的に広まりつつあります。ニューロダイバーシティ運動は国際的な市民権運動として存在しており、その最も影響力のある運動として自閉者の権利運動が含まれます。

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というものだ。


疑問

問題の解決にならないし、思想が道具として使われているようにも感じる。何かほかの思惑が隠されているように感じる。これはSDGSやポリコレにも言えることだが…。
これは当事者たちの総意なのだろうか、と。

事実当事者でも賛同している人ばかりではない。

自閉症のライターでありブロガーであるJonathan Mitchellは、ニューロダイバーシティ運動に対する反対者であり、自閉症の治療研究を進めるべきであると主張する。彼は、ニューロダイバーシティを「難しい問題に対して、安易な答えを出している」「自閉症の障害としての側面を軽視している」と批判する。彼は、彼の症状が彼の人生にとってネガティブに働いてきたと考える。自閉症があることで「これまでパートナーを得ることを妨げられた」「協調運動がうまくできず、筆記に困難を生じた」「人とうまく交れなかった」「集中することが苦手で、物事をやり遂げることが苦手になった」と述べている。 Mitchellはニューロダイバーシティを「自閉症スペクトラム障害者にとっての“安全弁”である」と述べ、自閉症スペクトラム障害者にニューロダイバーシティが広範に受け入れられているというのは“思い込み”であり、大多数の自閉症スペクトラム障害者はだれかのブログで自分の意見を表明したりしてこなかったしこれからもしないだろうと述べている。さらに、ニューロダイバーシティは低機能な自閉症者にとって何の解決ももたらしていない、と主張する。さらに、彼は、Temple Grandinも「自閉症の症状や体験を過度に一般化し、私の苦悩を軽視するような書きぶりであった」と批判する。こういった主張をすることでMitchellはこれまでニューロダイバーシティ支持者から誹謗中傷を受けている。

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当事者たちの意見は置いてけぼりだとも感じる。
これは最近のポリティカル・コレクトネス団体やヴィーガン団体にも通ずる。
一部の過激な人間が、本当に困っている人を置いてけぼりにして、間違った印象を周りに植え付ける。
ニューロダイバーシティもそうだろう。事実自閉症当事者間でも賛同しない者には誹謗中傷をしているとWikipediaには記載されていた。
過激派と言わないでなんと言おうか。多様性を目指しているのではなく、多数派を押しのけて自分たち中心の世界を作ろうとしているように感じる。
ポリティカル・コレクトネスの思想は、それを達成した。ゲームでは同性愛というテーマがシナリオを不自然にねじ曲げ、原作を改変した。

結論

できるならもうやっているだろう。
試みとして障害者雇用や事業所、就労移行支援施設などがある。
これが現時点での限界だ。
労働をするなら個性を消さねばならない。
何でもかんでも電子レンジにかけるコンビニ店員はたしかに個性的だが、商品がダメになってしまっては客も店長も困る。
健常者側にとってもこの思想は正しい面があるのは否定できない。しかし正しいかもしれないがメリットがないというものにもなる。
弱者に優しくするのは美徳だが、自分が損をするならやりたくはないだろう。
このニューロダイバーシティという思想は資本主義社会と相性が悪い。つまり損なのだ。
「平和がいい」「みんな幸せがいい」「喧嘩は良くない」
たしかにそうだ。
しかしよく分からないものは受け入れたくないし、損なものは正しくても抵抗がある。謙虚にもならず、我が物顔で押し付けてくるうえに、少しでも疑問を呈すると怒り出して、人でなしだと罵るなら尚更だ。

よく分からないものを受け入れるという意味では移民と同じだ。そしてその移民は自分の中の常識を見直そうとはしない。

神経学的差異をヒトの多様性、自己表現、存在の本来の在り方であると信ずるゆえに、それらは治療される必要がある(あるいは治療することができる)という考え方を退ける。

Wikipedia

日本の大多数とインストールしている常識が違っても、「これは個性だ」と主張し好き勝手やっている。
ポイ捨てをし、深夜に騒ぎ、ベランダで猫を解体する。
しかしニューロダイバーシティという思想を盾にし、周りに受け入れろと主張する。
周りの損など知った事ではない。
誇張抜きにそう解釈できる。
「不都合だろうが個性だから受け入れろ!」と主張しても、それが調和を乱す個性ならば受け入れるのは難しい。

喧嘩は良くないという理想論を叶えるには、同じような思想を持った人間で固めるという必要がある。
その思想は学校で刷り込む。
ニューロダイバーシティが実現すると、平和になるどころか、皮肉なことにそこら中で喧嘩まみれになる未来が見える。
「みんな違ってみんないい」現実世界においてこうは絶対ならない。

インクルージョン?

これはニューロダイバーシティとセットでよく聞く言葉なのだが包括的インクルージョンというものがある。
これはひと言で言うならば、「皆で仲良くやろう」というものだ。
しかしこれも理想論だ。
健常者とされる人間たちでも喧嘩はするし思想は合わない。そして市場の場で採用不採用がされる。
そもそもインクルージョンという内容自体がフワフワしていて完成された状態がよく分からない。
《存在を肯定される》ことなのか《働く場所を提供されること》なのか、《偏見をなくすこと》なのか、全く分からない。
《平和》や《平等》《誹謗中傷》と同じニュアンスを感じる。
何をもってそうと言えるのか。達成と言えるのか。
日本は平和なのか?たしかに戦争が無いという意味では平和だが、未だにイジメは無くならない。
何をもって平等なのか。人権は平等だが、収入は平等ではないし、寿命も違う。能力値が違う。
どこからが誹謗中傷なのか。悪口なのか、虚偽の内容なのか、的外れな意見なのか…。

定義をハッキリできない限り、ただの理想論だ。

綺麗事だけでは解決しない。問題から目を背けているという面はあるだろう。
事実、具体的にどういう状態かが、ニューロダイバーシティを唱えている人間や支持している人間もよく分かっていないのだから。
一方的に投げつけられる強引な理想論でしかないので話し合いにもならない。
ヴィーガンのようにただ主張するだけ。いずれその主張はもっと過激になるかもしれない。

まとめ

現時点では当事者同士で傷を舐め合う思想でしかない。
そしてこの先もSDGSと同じで実現は不可能だろう。

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