ニューロダイバーシティ実現は不可能
いつから出てきたのかは分からないが、《ニューロダイバーシティ》という価値観がある。
というものだ。
疑問
問題の解決にならないし、思想が道具として使われているようにも感じる。何かほかの思惑が隠されているように感じる。これはSDGSやポリコレにも言えることだが…。
これは当事者たちの総意なのだろうか、と。
事実当事者でも賛同している人ばかりではない。
当事者たちの意見は置いてけぼりだとも感じる。
これは最近のポリティカル・コレクトネス団体やヴィーガン団体にも通ずる。
一部の過激な人間が、本当に困っている人を置いてけぼりにして、間違った印象を周りに植え付ける。
ニューロダイバーシティもそうだろう。事実自閉症当事者間でも賛同しない者には誹謗中傷をしているとWikipediaには記載されていた。
過激派と言わないでなんと言おうか。多様性を目指しているのではなく、多数派を押しのけて自分たち中心の世界を作ろうとしているように感じる。
ポリティカル・コレクトネスの思想は、それを達成した。ゲームでは同性愛というテーマがシナリオを不自然にねじ曲げ、原作を改変した。
結論
できるならもうやっているだろう。
試みとして障害者雇用や事業所、就労移行支援施設などがある。
これが現時点での限界だ。
労働をするなら個性を消さねばならない。
何でもかんでも電子レンジにかけるコンビニ店員はたしかに個性的だが、商品がダメになってしまっては客も店長も困る。
健常者側にとってもこの思想は正しい面があるのは否定できない。しかし正しいかもしれないがメリットがないというものにもなる。
弱者に優しくするのは美徳だが、自分が損をするならやりたくはないだろう。
このニューロダイバーシティという思想は資本主義社会と相性が悪い。つまり損なのだ。
「平和がいい」「みんな幸せがいい」「喧嘩は良くない」
たしかにそうだ。
しかしよく分からないものは受け入れたくないし、損なものは正しくても抵抗がある。謙虚にもならず、我が物顔で押し付けてくるうえに、少しでも疑問を呈すると怒り出して、人でなしだと罵るなら尚更だ。
よく分からないものを受け入れるという意味では移民と同じだ。そしてその移民は自分の中の常識を見直そうとはしない。
日本の大多数とインストールしている常識が違っても、「これは個性だ」と主張し好き勝手やっている。
ポイ捨てをし、深夜に騒ぎ、ベランダで猫を解体する。
しかしニューロダイバーシティという思想を盾にし、周りに受け入れろと主張する。
周りの損など知った事ではない。
誇張抜きにそう解釈できる。
「不都合だろうが個性だから受け入れろ!」と主張しても、それが調和を乱す個性ならば受け入れるのは難しい。
喧嘩は良くないという理想論を叶えるには、同じような思想を持った人間で固めるという必要がある。
その思想は学校で刷り込む。
ニューロダイバーシティが実現すると、平和になるどころか、皮肉なことにそこら中で喧嘩まみれになる未来が見える。
「みんな違ってみんないい」現実世界においてこうは絶対ならない。
インクルージョン?
これはニューロダイバーシティとセットでよく聞く言葉なのだが包括的というものがある。
これはひと言で言うならば、「皆で仲良くやろう」というものだ。
しかしこれも理想論だ。
健常者とされる人間たちでも喧嘩はするし思想は合わない。そして市場の場で採用不採用がされる。
そもそもインクルージョンという内容自体がフワフワしていて完成された状態がよく分からない。
《存在を肯定される》ことなのか《働く場所を提供されること》なのか、《偏見をなくすこと》なのか、全く分からない。
《平和》や《平等》《誹謗中傷》と同じニュアンスを感じる。
何をもってそうと言えるのか。達成と言えるのか。
日本は平和なのか?たしかに戦争が無いという意味では平和だが、未だにイジメは無くならない。
何をもって平等なのか。人権は平等だが、収入は平等ではないし、寿命も違う。能力値が違う。
どこからが誹謗中傷なのか。悪口なのか、虚偽の内容なのか、的外れな意見なのか…。
定義をハッキリできない限り、ただの理想論だ。
綺麗事だけでは解決しない。問題から目を背けているという面はあるだろう。
事実、具体的にどういう状態かが、ニューロダイバーシティを唱えている人間や支持している人間もよく分かっていないのだから。
一方的に投げつけられる強引な理想論でしかないので話し合いにもならない。
ヴィーガンのようにただ主張するだけ。いずれその主張はもっと過激になるかもしれない。
まとめ
現時点では当事者同士で傷を舐め合う思想でしかない。
そしてこの先もSDGSと同じで実現は不可能だろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?