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KAIKA: or The (Post) Modern Ballet Mécanique

鈍色の空の下、白一色に凍りついた地面を慎重にハンドルを切りながら駅まで向かった。新幹線で日本海側から太平洋側へ、山脈を貫くトンネルをいくつも超えて群馬県に抜けると、そこは雪国ではなかった。窓越しに近付いてくる東京の空は青く晴れ渡っていた。

上野駅で降り、しばらく歩く。
東京に来ることは滅多になく、彼女のライブの度についでに立ち寄る場所を調べるのも楽しみのひとつとなっている。

「地獄の門」を眺め、重要文化財の昭和モダニズム建築の中に入る。
国立西洋美術館の「キュビスム展」はセザンヌからル・コルビュジエに至る「以前・以後」の流れも含めてその歩みが理解できた。展示の行われている建物自体がル・コルビュジエの設計だというのが作品の中に鑑賞者ごと作品を内包しているようで不思議な感覚だった。
ついでに、と常設展示の中世から近代までの西洋画や彫刻作品群を夢中で眺めているとすっかり昼を超えてしまったので、切り上げて原宿駅へ向かう。

松の内を過ぎても初詣の参拝客でまだハレの余韻を残す神宮の杜を背にして進むと、本日2つ目の巨大なモダニズム建築が見えた。ライブ会場である国立代々木競技場第一体育館、彼女とわたしたちにとっての祝祭の舞台だ。

2024年1月14日



神椿代々木決戦 Day2 『怪歌』

「青春の温度」から幕開けした花譜ちゃんの新たなライブシリーズ『怪歌』。今回から「4th」ワンマンライブらしいですよ。
冒頭から「あさひ」までの7曲はカンザキイオリさん楽曲でしたが、以降の16曲は『組曲』や新曲を交えた多様なコンポーザーの手によるものでした。改めて今回のライブが、ポスト『不可解』の新たな体制での幕開けであることを感じさせました。

カンザキさんの置き土産の「邂逅」。戦争や悪意がますます現実の世界を覆う昨今、改めてその歌詞が心に突き刺さります。
せめて私達だけはやさしくなろうよ。本当に。

例の流行病拡大以後、声出しが出来るようになってから初めての現地でしたので、「それを世界と言うんだね」のように会場の皆で歌うシンガロングのある曲はやっぱり楽しいな〜!と感じました。
新衣装の「雷鳥」、モコモコであったかそうで可愛かったですね……通常衣装だけど夏はどうなるのだろう……

ホロライブEN、森カリオペちゃんとのラップアレンジの「しゅげーハイ!!!」、KTちゃんとの新曲「ギミギミ逃避行」、立て続けのラップめちゃくちゃ楽しかったですね。特に現地参加で良かったと感じた部分です。メンバーシップでの「花譜楽」などで最近はジャンルの開拓に積極的な印象を受けますが、改めて花譜ちゃんのラップ好きだな……の気持ちが強まりました。
ディスコパート明けの「犀鳥」(MADTV発の花譜ちゃんデザイン衣装)、PALOW.さんデザインのシュッとしたカッコいい歌唱用形態との対比でキュートに振り切った姿は新鮮に映ります。しっぽかわいい。

Instagramで展開されている「バーチャルビーイング」花譜の登場、今回はなんだかゲームのラスボスのごとく冗談みたいにデッカい花譜(ドデ花譜)になっていましたが、どうやらデカ存在をバックにDJするのが最近のグローバルなEDMフェスのトレンドらしい。まずは何でも取り入れてみる機敏さは流石の神椿ですね。MONDO GROSSO大沢伸一さんのDJのお腹にビリビリくる低音はこの体で浴びれて良かったです。

特殊歌唱用形態「扇鳩」への変身。雷鳥も同様ですが花譜ちゃんの姫カットの髪型とってもかわいいね。以降の新曲ラッシュもすごかった。
MV企画のため撮影可能だった「ゲシュタルト」が特に印象に残っています。どっかーん!が元気いっぱい!な感じじゃなく語尾に♡のついてそうなちょっと魔性を感じさせるニュアンスだったの良いな……と思いました。

Guianoさんとのデュエット、「この世界は美しい」が今回のライブの「花譜」の歌としてのパートの大トリでした。曲のタイトルがいいですね。
“もしもわたしの祈りがあなたに届くなら。
もしもわたしの歌があなたに届くなら。
なんて、なんて美しい最低で綺麗な世界。”

花譜ちゃんの活動が「組曲」など様々なコンポーザーと生み出されていくスタイルになって以降も、ライブにおける「世界への祈り」というテーマは1st『不可解』の頃から一貫して不変であり、しっかりと継承されているんだな、と強く感じさせる締めくくりであったと思いました。

「深化オルタナティブ=可能性の拡張」

活動初期からずっと繰り返し表明されてきた「可能性の拡張」という言葉が、昨年来のSINKA LIVEシリーズを通して「深化オルタナティブ」という名前を与えられ、今回その9段階の概要がはっきりと提示されました。

深化Alternative5。
「現実の身体にバーチャルインターフェイスを実装し、リアルとバーチャルの関係性を反転させたあらたな存在へと分岐すること」
「廻花」というあらたな分岐が突如として示され、私達に衝撃を与えました。会場でのあの一瞬の沈黙とどよめきがまだ強く頭に残っています。

すでに数多くの観測者の様々な受け止めがXやnote上で活発に発信されているのを目にしていますが、みなさんの花譜ちゃんへの強い愛がひしひしと伝わってきて、わたしはかえって嬉しくなりました。

困惑や抵抗感などの痛切な感情の表明や、彼女や運営がここに至るまでの経緯がよく整理された論考など、いずれも大変参考になります。
その傍らで、無言でひっそりと去ってしまった観測者も中には居るのかもしれません。苦しくなったら離れてみるのもまたひとつの選択です。
わたし個人としては彼女自身と運営の決断を素直に受け止めたい気持ちでいます。

ある偶然の出会いからはじまった「花譜」という形は、つまり「バーチャル」という活動形態は、彼女にとっては決して予期したものではありませんでした。当時は中学生だったひとりの少女が安心して歌を届けるために、目的ではなく手段として「花譜」という形がとられた。
つまり、はじめは実存ではなく本質として「花譜」は生みだされ、先立つ「彼女」という実存のうえに次第に花譜としての意味や価値が、舞台を創り上げる運営や歌を与えるカンザキイオリさん、そして応援し共創する我々観測者とともに、この5年間の活動を通じて積み重ねられてきました。

振り返れば、「花譜」は今ここで急に変化を迎えたのではなく、生み出されてからずっと変化をし続けてきました。その帰結として今この瞬間があるのだと思います。「みんなでつくる」花譜はたくさんの人の想いをその身に一心に引き受けて、彼女でありながら彼女ではない「花譜」をも展開しつつ巨大なものになっていきました。

彼女は時にそれに戸惑い、悩みつつ、試行錯誤しながらこれまで活動を続けてきてくれたことは過去のライブのMCや数々のインタビュー記事から充分にうかがい知ることができます。

だからこそ、この度「オリジン」である彼女自身の表現の場としての「廻花」が生み出されたことは、自然なことだと感じますし、きっと彼女自身の内側にある湧き上がる想いを表現した歌を歌ってくれることを歓迎する観測者はたくさんいると確信しています。

一方で、「廻花」という形ではなくあくまでも「花譜」として表現を続けてほしかったという気持ちもよく理解出来ます。
「廻花」という存在が生まれたことで、わたしたちは花譜を見る際にも否が応でも「オリジンとしての彼女」というメタを意識せざるを得なくなってしまった。

「廻花」という存在をわたしたちがはじめて目の当たりにしたあの時の、一瞬の沈黙、そしてどよめき。「花譜」とはかけ離れた20歳の女の子のシルエットに、これまで信じてきた共同幻想としての花譜という本質を剥ぎ取られた「剥き出しの彼女の実存」を「見てしまった」、とわたしたちが感じたあの瞬間。
存在というヴェールに穴を空けられたサルトルの小説の主人公ロカンタンさながらの実存的不安に陥り、〈La Nausée=吐き気〉のごとき気分を味わった、のかもしれません。(あるいは「マロニエの木」としてのステージの樹木。)

しかしながら、改めてAlternative5、「廻花」を考えてみると、彼女の身体にデジタルな処理を施して画面越しに構築されたこの姿もまた彼女にとっての「アバター」であり、オリジンそのものではない「新たな存在」である点は強調されなければいけません。

みんなでつくる「花譜」の音楽と、彼女自身の言葉と音楽で紡ぎ出される「廻花」の音楽。はっきりと打ち出されたこのふたつの活動方針は、これからの花譜の活動にとっても避け難い変化を与えるでしょうが、ライブ後にラジオ「ぱんぱかカフぃR」で語られた「花譜も100、廻花も100」という彼女自身の決意を信じたいと思います。

この決断によってこれまで「花譜」として生み出されてきた歩みが否定されたり、創り上げられてきたものが花譜でなくなることはなく、過去との決別を意味するものでも決してないと、わたしは理解しています。

“花譜として生きるわたしは死なないし今のところ誰にも奪わせないつもりなので、そこはよろしくお願いします!!その先はとりあえずあなた次第!!!!”

今からおよそ百年とすこし前、それまでの西洋絵画の伝統や常識を破壊し、「様々な角度から見た物の形を一つの画面に収める」 といった新たな手法を開拓した「キュビスム」という芸術運動がありました。今では当たり前に行われている「コラージュ」という手法も、このキュビスムの中から生まれてきます。

彼女というひとりの存在を多面的に捉え、「花譜」としてひとつの歌に表現し、また多様なアーティストから織り成される「花譜」をひとつのライブという形に落とし込んでいく、『組曲』や『怪花』に象徴されるこれからの「花譜」の活動は、さながらキュビスム的な実践だな、とわたしは思うのです。

目の前の存在を分析的に観測しながら、単に忠実に写し取る写実主義でもなく、理念や空想に振り切った抽象表現でもないピカソやブラックの作品のように、あくまでも実存としての彼女というひとりの少女を基軸としながら、オリジンそのものでもなくキャラクターでもない、「花譜」という具象を描いていくキュビスム的実践としての活動を、これからも見守っていきたいものです。

数年前に私自身のnoteにしたためたように、ドグマにとらわれることなく可能性を発揮できる、実存が本質に先立つ、目的ではなく手段としての「バーチャル」を実現していってほしいというのが今回のライブを通じての改めての私の願いです。

わたし個人としては、彼女というひとりの実存に根差し花を咲かせる「花譜」としての歌も「廻花」としての歌もほんとうに愛おしく感じています。

ねえ、あなたは確かにそこにいたよ。
“Fly high, beautiful sky.”


なにもそうかたを
つけたがらなくてもいいのではないか

なにか得体の知れないものがあり
なんということなしに
ひとりでにそうなってしまう
というのでいいのではないか

咲いたら花だった
吹いたら風だった

それでいいではないか

高橋元吉 『なにもそうかたを…』


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