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初めて西洋人宅を訪れる

三月二十七日~三十日 岩崎弥太郎の放蕩の反省は三日坊主で終わり、丸山通いを復活させたのが功を奏して、妓楼で初めてイギリス人と知り合いになり、居宅を訪ねることになります。

二十七日 灸治に行き、同宿者に句読を教えた後、清人を寄宿先に訪ねました。筆談の後、一緒に丸山の浪花楼に出かけ、清人が催す歌妓を交えての宴会に同席し「大分帯酔」。ひとりで抜けて赴いた花月楼で、イギリス人「メイチヨヤウと蘭人某」に出会い、翌日「メイチヨヤウ」の寓居を訪問する約束ができました。

 日記の記述では「メイチヨヤウとオランダ人某」が「(お目当ての?)遊女が逃げ隠れているのを各房に入って頻りに探していた」。開港後間もないのに、丸山の妓楼で傍若無人のふるまいです。また廓内で清人が酔って狂態を示すのにも弥太郎は出遭っています(三十日)。日本人の多くが外国人に対して弱腰なのを早くも見抜かれていたようです。
 弥太郎は、後に務める長崎土佐商会時代以降、外国人に全然気後れしないので却って信用を得ることになります。「メイチヨヤウ」は「John Major」という名以外めぼしい情報がなく、また初対面の弥太郎と訪問の約束ができた経緯も不明ですが、弥太郎のこうした性質のなせるわざかもしれません。

 弥太郎は花月のやり手阿近おちかと気が合い、一緒に妓楼を冷却ひやかしました。酔いすぎたと感じた弥太郎は、浪花楼に刀と羽織を取りに戻ろうとしましたが、袖を引っ張られて無理に花月に誘われます。しかし、見知っている禿かむろに託して、馴染みの遊女に今日は行けないと伝言し去りました。夜中を過ぎて寄宿先に戻ると、下許武兵衛はまだ起きており、明かりを灯して読書していました。

二十八日 下許と一緒に新開地の広馬場にある「メイチヤウ」の寓居を訪れると、家に上げて歓待され、オランダの酒をふるまわれました。「彼は他の英人とは比べられないほど日本を理解している。所持している楽器を持ち出し、今時の日本の歌を弾いたが、寸分も音節を外さなかったので、下許と二人で掌を打って感心し褒め讃えた」その後、昨日の清人宅に行って、匪賊ひぞくの乱(太平天国の乱)の始末に関して解説を書いてほしいと頼みました。

二十九日 細雨のち曇り。読書したり散歩したりの一日でした。

三十日 同宿の丹波商人六兵衛と買い物に出かけ、その帰りに下許と出会いました。流れ灌頂かんじょう(水死者や死亡した妊産婦などの供養)の日でした。

日蓮の旗を指し立て、はなはだしい数の行列が続く。見物人が街市を充たして塞いでしまい、道を通ることもできないのを押し開いて通り過ぎた。下許君は明日から肥後へ行くとのことで、ちょっと飲みに行こうと促された。

 浴場に行き、茶屋で飲んだ後、寓舎に戻って「喫飯」。薄暗くなってから再度外出して丸山に行くと「各妓楼の燈光がきらめき、弦鼓の音が鳴り響いていた」。下許がどの楼にするか迷っていると、浪花楼のやり手に強引に誘われます。「不得止やむをえず」楼に上がると多数の歌妓に男芸者、合わせて十七八人も来席しました。

 下許が帰った後、弥太郎は一人で嘉満楼から花月へと巡り、最後に瑞松亭で旧知の照葉と「対酌」しました。下許に気兼ねして同衾しても眠れませんでした。帰り際、楼内で歌妓と立ち話をしていると、酔って様子のおかしい清の客が通りかかり、大声で悪罵して来る気配でした。弥太郎は中国語の読み書きができますが、聞いてもわかりませんから余不解其意意味がわからなかった。寓舎に帰ると夜中を過ぎていました。


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