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弥太郎、助けた遊女に礼を言われる

二月二十四日~二十六日 長崎の夜の町で、弥太郎はもはやいっぱしの遊びです。とはいえ、本来の職務も忘れてはいません。

二十四日 雨。二宮塾の浅海琴谷ら三人が長崎を発つというので、岩崎弥太郎と下許武兵衛は「送別会」に招かれました。会場をどこにするのか紆余曲折の末、丸山の浪華楼に決まり、日が暮れると参加者が続々と集まりました。みな入り乱れて盃を回し、弦や鼓がやかましく鳴らされて、宴会は大盛り上がりです。

 夜が更けると、弥太郎はひとり会場から抜けました。昨晩の老婦との約束を守り、花月楼に出かけたのです。しかし望んでいた遊女あけぼのは都合がつかず、別の楼の常盤野ときわのも不在。老婦の周旋で錦絵という遊女との「枕席」が決まりました。

 一旦浪華楼に戻ると、「余がいないのを多くの者がいぶかっていたところで、都合が良かったと何度も巨大な盃で飲まされた」。参加者たちは「十分酔いが回って段々と退出」しました。弥太郎と下許は浅海をもてなすために残りました。

 その後、三人も辞去して雨で暗い泥道を津国屋に行きました。すると、老婦が弥太郎だけを招いて戸を閉めたので(「予約」のあった弥太郎以外には妓女の都合がつかなかったためか?)、残された二人は「戸外でしきりに戸を叩いた」。二人が去り、老婦と談話していると、錦絵が来ました。「年は十五、六で、随分と容色も良く、かつ性質が柔和」。ここに、先日夕方、中沢寅太郎との間で揉めた「小妓」が来て、弥太郎が仲裁してくれたことにお礼を言いました。「これも遊女屋での一興だ」

 寝て起きると、すでに夜更け過ぎ。辞去して寓舎に戻ると、宴会から流れてきた浅海らが酔い潰れて臥していました。弥太郎は、明かりを灯して『大英国志』を読もうとしたものの、すぐ寝てしまい……英国史は弥太郎を眠たくさせるようです。なお、宴席後の深夜の勉強は、後々まで続く弥太郎の習慣です。日記の最後に宴会参加者全員の名前をあげ、「余を加えて」十一人だったと几帳面に記しています。

二十五日 てい宇十郎を訪ね、浴場に行った後、昨晩の「劇飲」のせいで心神が疲れ、眠くなりました。それでも高青丘の詩を読んだり、詩作を試みたり(完成せず)。夜には中外新報を読みました。家への手紙も書いて知人に託しています。

 高青丘は、中国明代初期の詩人高啓の号。青邱せいきゅうを「青丘」と記したもの。高啓は、日本では江戸~明治期に人気があったそうです。

Wikipedia「高啓」の項より

二十六日 鄭氏と唐館を訪ねましたが、先日に続いて「雨で空しく帰る」。なぜ雨を理由に唐館が訪問を受けないのかは不明。その後、ひょう?鏡如と林雲逵うんきを訪問するも会えませんでしたが、林とは夜の約束をすることができました。その後、「思いがけなく陳僕園に出会い、少しの間筆談をした。格別の人物とも見えないが、年が若く容姿が愛らしくて揮毫きごうもかなりのものだった」

 出直して下許と雲逵宅を訪問、筆談を交わした後、雲逵を丸山に誘いました。酒亭に歌娼を呼んで宴を催し、妓楼に同行したのですが、花月楼でも津国屋でも妓女の都合が合わず、浪華屋で酒を飲みました。

 弥太郎はまたも一人で抜けて端松亭に行き、花月楼の老婦と相談したところ、何と「かねて望んでいた曙がいるとのことで、雀躍した」。浪華屋に戻ると、雲逵はいつの間にか退出、下許も辞去しました。「余は曙と枕席を同じうした。空が明るくなってから帰った。夜通し、雨音が絶えなかった」


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