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弥太郎、長崎の新年を満喫する

瓊浦けいほ日録 安政7年(1860年)

元旦 早起きして戸を押し開けると薄曇り、淡い霞がかかっている。穏やかな日和り。口をすすいで、髪に櫛を入れる。ひざまずいて土佐の両親を遙拝すると、帰りたい思いで寂しくてたまらない。七言絶句をつくった。

 岩崎弥太郎は、開港した長崎の情勢を調べるため土佐藩から派遣され、上司格の下許しももと武兵衛と共に安政6年12月6日に着任しました。新しい土地で、年が改まったのを契機に日記をつけ始めたわけです。日記の最初の日に、弥太郎は強い望郷の思いを記しています。土佐を陸路で離れてから、まだ二ヶ月あまりなのですが。

 この後、弥太郎は同宿の者たちと車座になって餅を食べ、めでたい椒酒しょうしゅを飲みます。その後連れだって外出、神社を参拝し、知人を訪ねます。昼食後には高所に登り、下許が袖内に携帯した望遠鏡で、湾内に停泊する「蛮船」を見て「」を覚えます。

「椒酒」は新年に長寿を祈願して飲む、サンショウの実とカシワの葉を入れた酒のようです。おいしくはなさそう。

 宿に戻った後、丹波商人六兵衛と囲碁をした(1勝1敗)後、止宿先の「翁」も加わって歌い踊って楽しみ、深更に至るまで宴は続きました。異郷の正月を満喫した一日の最後に、弥太郎はこう記しました。

街市は静まって寂しく感じられた。衣を解いて寝床につく。故郷の慈母に思いをはせた。

 原文は漢文で一見簡潔な文章のようなのですが、口語訳すると、生活の場面や心の動きを細やかに表現していることが分かります。この日は、「正月の儀式が我が家と少し違う」という観察も記しています。こうした文章を読むと、現代人の目にはむしろよくある日記のように見えるでしょう(漢文であることを無視すれば)。

 しかし、明治維新以前において、起居の動作を描写したり、日常生活の細部を書き込んだりする日記は、非常に珍しいものと言えます。また、この先に見ることになるでしょうが、自らの心理状態や夢の描写をすることさえあります。弥太郎と同様の例はないのではないか、と私は疑っています。

 なお、日記本文の現代語訳や内容紹介は、私訳であり私案です。原文、原意に忠実であるよう心がけていますが、正確さの保証はできかねます。

<参考情報>

 下許武兵衛は土佐藩の上士です。弥太郎は地下浪人という武士とも言えない低い身分であり、身分が低すぎて任務に支障があったようで、とある下級武士の籍の者という仮の身分を与えられていました。

 弥太郎と下許の止宿先は鍛冶屋町の大根屋。長崎一の繁華街丸山の近くです。こんな誘惑の多い場所に宿を取ったのには、実は理由があったと私は考えています。この件については、またいずれ。

 原文では「絶」とある七言絶句は以下の通り。弥太郎は漢詩を得意としています。私の現代語訳はかなりの意訳ですが、弥太郎の真意を汲んでいるつもりです。ここでも、故郷の両親を思う情が吐露されていますが、結句のセンスが良く、いい感じです。

遙憶故園啣毒杯 嬉々鳥雀上庭梅
東風今暁温如此 知是従爺嬢面來

遙かに故郷を思って毒酒(笑)を口にふくんだ
すると、鳥や雀が嬉々として庭の梅の木にやって来た
今、夜明け時に感じる東風は、このようにも温かい
この風は、父母が吹かせてくれているのだと私は信じる

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