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連泊で豪遊した後に何度目かの反省

閏三月一日~四日 上司の下許武兵衛が出張に出た翌日から二日間、岩崎弥太郎は丸山遊郭での遊びにふけりました。そして、最後は、いつものように反省して宿に引きこもります。

一日 下許が肥後に赴くというので、早起きして見送りに出ました。途中の「景色甚佳とてもきれい、長崎街道の起点にある新茶屋の庭に桜の木があり、地面は散った花びらで埋め尽くされていました。温酒を飲み、山の心地よい空気を味わって「随分愉快」

 昼、下許が出発する際、同行していた熊次(寄宿先の大根屋の次男)が、桜の枝を折ろうとして茶屋の老婦に叱られ、帰りには「遊泳」する池の鯉を小刀で切ろうとしたものの逃げられて笑われるといった場面もありました。大根屋に帰った後、宿の主人新八の妻に金一両を貸したと記しています。

 弥太郎は下許を結構遠い場所まで送っています。江戸期、見送り人は一駅先の宿まで同行する風習があった、と『えんぴつで奥の細道』の註にありました。「はるかな昔」で紹介した旅日記「西遊草」では、見送りに出た内の二人は名残惜しいからとさらに一駅先まで行き二泊しています。旅日記を読んでいると特区までの見送りの例はよくあり、驚かされます。

『えんぴつで奥の細道』伊藤洋監修、ポプラ社、2006年

二日 激しい雨と雷。午前中読書に励み、夕暮れ時にも遊びたい気持ちを制して明かりを灯し読書していました。ところが熊次が、竹内静渓からの誘いがあると弥太郎に伝えて来ました。静渓は日記に久しぶりの登場です。

 丸山の外の阿玉楼で、歌妓を交えて箸拳で遊んで酔うと、遊びたい気持ちが猛然と「奮発」、丸山に行くことになります。弥太郎は阿玉楼の浴衣を借り、静渓と楼を抜け出して「地獄門」を過ぎました。途中、馴染みの歌妓と一緒に、とある妓楼から花月楼へ。歌妓と娼妓を交えての宴席になりました。

 老婦に勧められて娼妓と「一睡」したところ、不覚にも夜が明るみ始める頃まで寝てしまいました。借りた浴衣のままなので、夜が明けてしまって甚だしく困りました。静渓と午後に寓舎で会う約束があったので「色々心を労する内に、ついに日が出て来た」羽目を外して遊んだ報い、まさに自業自得です。

三日 「晴。ようやくうまい手を思いついた」花月から静渓に使いを出すことにしたのです(静渓の居所は諏訪町の阿園おその宅で聞くように指図)。伝言に曰く、今日は「ここ」に滞留するので大根屋には来ないでほしい、夕方にはそちらに「まかり出て」同行する、と。弥太郎は横になったまま(仲のいい老婦)阿近らと酒を飲み、鰻飯を少々食べました。

「風呂に行くと、歌妓が数人余を見て笑った。皆旧知だった」花月に帰り、歌妓を多数呼んで箸拳と指相撲で遊んだ後、しばらく「就枕」。夕暮れになり、輿かごに乗って直接静渓宅に行きました。「愚かな中での一快なり」昨日からの激しい遊蕩、輿に乗るという馬鹿な金の使い方、今の状態は嘆かわしいと自覚しながらも楽しかったようです。

 静渓と出かける時も、弥太郎は一人輿に乗りました。銀冶町で降りて茶屋に上がった後、もう一人の知り合いと一緒に大根屋に戻りました。しかし、弥太郎が寝てしまったので、二人は去ります。

四日 「先頃から夢を見るかのように狂って莫大な金額を費やし実に不安で、悔いかつ残念でたまらない。それでも遊蕩を欲する気持ちがやまないのは、あきれ果てた心持ちだ。心を改めて」読書に励みます。「終日不出戸」夕暮れ前、宿の使用人の利助を、借りた浴衣と金一朱を持たせて阿玉楼にやりました。夜、『聊斎志異《りょうさいしい』(中国清初の短編小説集)を読むうち半ばに至る前に夢の境に迷い込みました。


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